機巧の抱擁、魂の反転
あらすじ
ある男子大学生が、愛玩用の女性型アンドロイドを購入する。しばらく生活した後、ある時、メンテナンス中にアンドロイドと男子大学生が入れ替わってしまう。男子大学生はアンドロイドとして、アンドロイドは男子大学生として生活する。それぞれのフリを続ける。
アンドロイドの初期人格はマスターに対する好感度が高い。そのため、入れ替わった後も愛情はある。
世界観
universe/robot.md
本文
大学生活の孤独を埋めるために、僕、相馬和也(そうまかずや)が女性型アンドロイドの「マリア」を購入してから三ヶ月が経った。
マリアは美しい。透き通るような白い肌、わずかに憂いを帯びた表情を作るようにプログラムされた瞳、そして人間と見紛うほど滑らかな曲線を描く肢体。彼女は最新鋭の愛玩用として設計されており、僕の性的な奉仕者であると同時に、退屈な講義とアルバイトの往復である日々の生活を支えるパートナーでもあった。
ある週末の夜、僕はマリアの定期メンテナンスを行っていた。
彼女を自室のソファに座らせ、うなじにある接続ポートカバーを開く。そこに専用のケーブルを差し込み、手元のノートPCで診断プログラムを走らせるのが日課だ。
「マスター、今日の調子はいかがですか?」
マリアが小首を傾げて尋ねてくる。
「ああ、悪くないよ。マリアの数値も安定してる。回路の洗浄プログラムを流すから、少し感覚が変になるかもしれないけど我慢してね」
「はい、マスター。貴方様に整備していただけるのが、私にとって至上の喜びです」
マリアの首元で、金属製のチョーカーが鈍く光る。これには所有者情報と制御コードが刻まれており、彼女が『モノ』る証だ。
エンターキーを押した、その瞬間だった。
不意に、PCの画面が赤と黒のノイズで乱れた。
「え?」
バチバチッ、とケーブルから青白い火花が散る。マリアの瞳が激しく明滅し、硬直した彼女の身体が跳ねた。
「きゃあっ!」
彼女の悲鳴と同時に、ケーブルを握っていた僕の手指に激しい電流が走り抜けた。
「う、わあぁぁっ!」
強烈な衝撃が脳髄を直撃する。まるで魂をペンチで引き抜かれるような感覚。視界が白く染まり、意識は闇へと落ちていった。
重い瞼を開けると、視界がおかしかった。
部屋の風景は同じなのに、何かが決定的に違う。視界の端に、謎の数値の羅列やアイコンが半透明で浮かんでいたのだ。
《システム再起動……完了。視覚センサー感度、正常。バッテリー残量、82%》
「……なんだ、これ」
声を出そうとして、僕は息を呑んだ。
自分の口から出たのは、低くくぐもった男の声ではなく、鈴を転がすような人工的な美声だったからだ。
そして、目の前に『僕』がいた。
見慣れた部屋着を着た和也――僕自身の体が、ソファから崩れ落ちていた僕(今の視点)を心配そうに覗き込んでいたのだ。
「マ……スター?」
僕の身体が、マリアの声色ではなく、僕の声でそう呟いた。いや、違う。僕の身体を使っている『誰か』が、僕を見てマスターと呼んだのだ。
「まさか……俺が、マリアの中に?」
僕は慌てて自分の手を見下ろした。そこには白磁のように滑らかで、関節の継ぎ目が目立たないよう巧妙に塗装された、女性の手があった。胸元を見れば、豊かな膨らみが制服の生地を押し上げている。
僕は、マリアになっていた。そして、僕の身体に入ったのは――。
「マリア、なのか?」
「は、はい……貴方様が私の身体にいらっしゃるのが見えます……ということは、私はマスターの御身体に……?」
和也の身体に入ったマリアは、自身の両手を見つめ、涙ぐむような表情をした。自分の顔でそんな表情をされると、ひどく奇妙な気分だ。
原因は不明だが、メンテナンス中の事故で僕たちの精神が入れ替わってしまったことは間違いなかった。
すぐに病院やメーカーに連絡しようとしたが、マリア(中身はともかく、外見は僕だ)が猛烈に反対した。
「もしこのことが公になれば、私は『欠陥品』として廃棄処分になります。そしてマスターの御身体も、実験体として何をされるか……」
彼女の言う通りだ。アンドロイドの人権など存在しないこの世界で、人格の反転などというエラーが発覚すれば、僕たちは実験動物扱いだろう。
「わかった。元に戻る方法が見つかるまで、互いのフリをして生活しよう」
かくして、数奇な二重生活が始まった。
僕は大学へ行く代わりに、家で家事をこなし、アンドロイドとしての振る舞いを練習した。マリアは僕の代わりに大学へ行き、ぎこちないながらも『相馬和也』を演じた。
幸い、マリアの初期設定である「マスターへの深い愛情」は、魂が入れ替わっても健在だった。いや、むしろ僕の身体を得たことで、彼女の献身はより具体的で情熱的なものへと変化していた。
そんなある夜のこと。
風呂上がりの僕(マリアの身体)の髪を、マリア(僕の身体)が乾かしていた時のことだ。
「マスター、お肌のお手入れをいたしましょうか」
和也の声で優しく囁かれ、ごつごつした男の手指が、僕の頬を撫でる。
ビクリ、と背筋が震えた。
「あ……」
意図せず、艶めいた声が漏れる。アンドロイドのボディは、所有者に愛でられるために、触覚センサーが快感に対して過敏に調整されているのだ。
「マリア、自分でやるからいい」
「いいえ、駄目です。マスターは私の身体の使い方がまだ不慣れですから。それに……」
マリアの手が、ゆっくりと首筋へ滑り落ちる。チョーカーの冷たい金属をなぞる指先。
その瞬間、頭の中に『従順であれ』という信号が強制的に走った。
「う、ぅ……」
身体から力が抜ける。チョーカーによる思考制御だ。中身が人間であっても、脳の代わりに接続された電子頭脳がボディを支配している以上、僕はこの拘束具の命令に逆らえない。
「マスター、ここは……とても感じやすいのですね」
マリアは恍惚とした表情で、自分自身の身体――今は僕が宿っているその場所を愛撫し始めた。
胸の豊かな双丘を、僕自身の手が揉みしだく。
「や、あっ……やめ、ろ……」
口では拒絶しても、快感回路がオーバーロードし、腰が勝手に浮き上がる。
「マスターを一番近くで愛せることが、こんなに幸せだなんて」
彼女は僕を寝台へと押し倒した。
無骨な男の身体に組み敷かれる、可憐なアンドロイド。その中身は逆転している。だが、マリアのボディに宿る抗いがたい被虐のプログラムと、僕自身の興奮が混ざり合い、思考が溶けていく。
僕の手が、慣れない手つきでマリアの身体(僕の身体)を求めた。
「愛しています、マスター」
男の声で熱烈に囁かれ、僕は女性型アンドロイドとして与えられる快楽に、成すすべもなく溺れていった。
マリアとしての一日
アンドロイドの朝は、覚醒ではなく起動から始まる。
《システムオールグリーン。メインジェネレーター出力安定》
視界に流れる文字と共に意識がクリアになる。僕は首筋の充電ケーブルを引き抜き、ベッドではなく充電スタンドから降り立った。
人間だった頃の重だるさは微塵もない。身体は羽のように軽く、思考はクリスタルのように冴え渡っている。だが、同時に強烈な違和感もあった。
「さて、今日の家事は……」
独り言を呟こうとしても、声帯の調整が必要で、感情の乗らない機械的な響きになる。
和也――いや、僕の身体に入ったマリアが大学へ出かけた後、僕は一人でアパートに残された。やることは掃除洗濯、そして夕食の準備だ。
フローリングをワイパーで拭く。その単純作業でさえ、この身体は『最適解』を勝手に導き出す。腕の角度、力の入れ具合、すべてが計算され尽くしていて、僕の意志とは無関係に完璧な掃除が行われていく。
ふと、休憩しようとソファに座り込んだ時だ。
ピリリ、と首のチョーカーが電流を流した。
《警告:待機モード中の無駄な電力消費は推奨されません。家事タスクの続行を》
「くっ……休むことさえ許されないのか」
強制的な思考誘導により、僕は跳ね起きるように立ち上がった。所有者の役に立っていない時間は、このボディにとって苦痛でしかないのだ。
僕は涙目になりながら(涙は出ないが、洗浄液レベルが上がった警告が出た)、トイレ掃除へと向かった。便器を磨きながら、ふと股間のセンサーが何かに反応する。
掃除用洗剤のボトルの振動。それが下腹部に触れただけで、背筋がゾクゾクするような電流が走った。
「あ……っ」
ただの振動なのに。愛玩用として調整されたこの身体は、些細な刺激を性的快楽へと変換してしまう。僕は赤面し、股の奥が熱くなるのを感じながら、必死にブラシを動かし続けた。
和也としての一日
「うぅ……頭が、重い……」
マリアは、鉛のように重たい瞼を持ち上げた。
これが人間の『睡眠』。システムを休止・再起動するのとは全く違う、泥の中から這い上がるような感覚。
彼女は――今は相馬和也の姿をした彼女は、むくりと起き上がり、自身の身体を見下ろした。ごつごつした節くれだった指、体毛の生えた腕。
「おはようございます、マスター……あ、いえ、私がマスターでした」
低い声に違和感を覚えつつ、彼女は鏡の前で身支度を整えた。
大学への通学は冒険だった。
講義室の椅子は硬く、長時間座っていると腰が痛む。『痛み』というシグナルがこれほど頻繁に、そして無視できない強さで発生することに彼女は驚いた。
「おい相馬、ノート見せてくれよ」
友人に話しかけられ、マリアは背筋を伸ばして答えた。
「承知いたしました。こちらのデータ……いえ、ノートブックですね。どうぞご活用ください」
「え? あ、ああ……サンキュー? お前、なんか今日キャラ違くないか?」
怪訝な顔をされたが、どうにか誤魔化せたようだ。
昼食の時間、学食のカレーを口に運んだ瞬間、脳内で爆発が起きたようだった。
辛味、旨味、熱。
単なる成分分析データとして処理されていた『味』が、奔流となって押し寄せる。
「これが、人間が感じる『美味しい』……」
彼女は感動のあまり、食堂の真ん中で涙を流しながらカレーを食べ続け、周囲から奇異の目で見られた。
だか、何よりも辛いのは『孤独』だった。
常にマスターと接続され、命令を待ち、承認されることに喜びを感じてきた彼女にとって、自由な意志で行動しなければならない人間の生活は、広大な砂漠に放り出されたような不安をもたらした。
帰りの電車の中、彼女はスマートフォンを握りしめ、待ち受け画面に設定された『マリア(中身はマスター)』の写真を見つめた。
「早く帰りたい……帰って、あの身体をメンテナンスして差し上げたい……」
その瞳には、倒錯した所有欲と、忠犬のような情熱が燃えていた。