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完全なる擬態の夜

4,357 文字 約 9 分

「おとなりに変異生物」シリーズをイメージして作成。

あらすじ

カエルのようにも見えるその生物は、ある生物研究所の失敗作だった。生物には他の生物を取り込み、その生物に擬態する能力が追加されていた。しかし、人為的に擬態する生物を指定することができず、利用法が見いだせなかったことから、処分されたはずだった。
たまたま生き延びた個体は、研究所のある小高い丘を離れ、夜の市街地へとやってきた。その生物は生き延びるために、別の生物に擬態する必要があると考える。ちょうど路地裏を通る女子高生の姿が見える。
生物は口を大きく開けて舌を伸ばし、女子高生を飲み込んで服を吐き出す。そして、だんだんと女子高生の体が形作られてゆく。体内も人間と同じように作られるが、あくまで形を模しているだけで実際にその通り機能するわけではない。
体が完成すると、彼女は自分が服を着ておらずびしょびしょであることに他人事のように驚く。それは取り込んだ脳の記憶からその場に適した反応をしただけ。
それまでの彼女とは全く同じに見えるが、目は時折カエルのような黒一色の眼球にひし形の瞳孔となり、唇はかすかに震えている。全身の産毛がそば立っている。


登場人物

  • 結衣(ゆい)
    市内の高校に通う、ごく普通の女子高生。年齢は17歳。身長158cmほどの平均的な背丈で、肩まで伸びた艶やかな黒髪と、少し幼さの残る丸みを帯びた顔立ちが特徴。紺色のセーラー服にローファーという出で立ちで、部活帰りや塾帰りに暗い路地裏を通っていたところ、怪物に遭遇し、その身を奪われることになる。

  • 「それ」(カエル状の怪物)
    山上の生物研究所から脱走した失敗作の変異生物。本来の姿は、人間の子供ほどの大きな体積を持ち、ぬるぬるとした粘液に覆われたカエルに似たおぞましい姿。他の生物を丸呑みにし、そのDNAや記憶、肉体の構造まで完全にスキャンして「擬態」する能力を持つ。

本文

街の喧騒から遠く離れた、市外の小高い丘。その鬱蒼とした森の中に隔離されるように建てられた生物研究所から、一つの「失敗作」がこっそりと逃げ出していた。

本来であれば厳重な管理の下で焼却処分されるはずだったそれは、偶然の設備の不具合と、研究員たちの些細なルーズさが重なった結果、排水溝を通じて外の世界へと這い出すことに成功していた。
月明かりに照らされたそのシルエットは、極めて醜悪だった。大型犬、いや、人間の子供ほどの大きな体積を持ちながら、四肢の関節は不自然に曲がり、全身はカエルのようなぬめりを帯びた暗緑色の粘液で覆われている。喉の奥からは「グルルル……」「ゲロロ……」という形容しがたい低い湿った鳴き声が断続的に漏れていた。

その生物には、明確な名前も、知能と呼べるほどの高度な精神もない。ただ一つ、本能として組み込まれた恐るべき機能があった。それは「他の生物を捕食し、そのDNAから外見、肉体の構造、さらには脳のネットワークのパターンまでを読み取って完全に擬態する」というものだ。
しかし、研究所の科学者たちにとって、この能力は無用の長物だった。「何を捕食するか」「何に擬態するか」を人為的にコントロールすることが全くできず、与えられた餌を手当たり次第に取り込んでは無作為に変身を繰り返すだけの、予測不可能なバグの塊のような存在だったからである。

「ゲロォ……」

夜の冷たい雨がシトシトと降り始める中、怪物は湿ったアスファルトの匂いと、微かな「獲物」の匂いに惹かれて、ネオンが淡く光る市街地へと下りてきた。
生き延びたばかりの今の形態は、極めて脆弱だ。外気に晒され続けると体表の粘液が干からび、細胞が崩壊してしまう。怪物は本能レベルで理解していた。一刻も早く、この環境に適応した別の「器」を手に入れなければならない。他の生物を取り込み、その姿に成り代わらなければ、明日の朝日を見ることはできない。
濡れたアスファルトを這いずるように進み、人気のない路地裏へと滑り込む。自動販売機の裏側、ゴミ捨て場の影。人間たちの視界に入らない暗がりを選んで、それは息を潜め、絶好の獲物を待った。

その日の夜、高校二年生の結衣は、塾の帰りで足取りを速めていた。

「もう、最悪……傘持ってきてないのに」

ポツポツと降り始めた雨に文句を言いながら、結衣は少しでも早く家に着くために、普段はあまり通らない薄暗い裏路地をショートカットすることにした。
濡れたセーラー服が肌に張り付く感覚に不快感を覚えながら、結衣は通学カバンを頭に乗せて小走りで進む。肩まで伸びた黒髪が雨滴を弾き、顔にペタリと張り付く。周囲には誰もおらず、ただ雨音と彼女のローファーが水たまりを跳ねる音だけが響いていた。

その音に、闇の中に潜んでいた怪物が反応した。

怪物のカエルのように真横に裂けた大きな口が、ゆっくりと音もなく開かれる。喉の奥から、ねっとりとした太い唾液の糸が引く。
やって来た獲物は、人間という生物のメス。大きさもちょうどいい。形を作るための「器」として、この上ない極上の個体だった。

「……え?」

結衣が立ち止まったのは、目の前のゴミ箱の陰から、ぬるりとした巨大な影が這い出してきたからだ。
一瞬、大きな犬か何かかと思った。しかし、その輪郭はどう見ても哺乳類のそれではなかった。暗がりの中でもわかるほど異常に膨れ上がった胴体。ぎょろりとした巨大な黒い眼球。雨を弾く不気味な光沢。そして何より、ぱっくりと開かれた口から覗く、人間サイズの獲物を丸飲みできそうな巨大な空洞。

悲鳴を上げる暇もなかった。
怪物の口内から、極度に圧縮された筋肉の塊である「舌」がバネのようにはじけ飛んだ。

「ひっ——!?」

ベチャッ!!
強力な粘着力を持つ太い舌が、結衣の華奢な胴体をぐるりと巻き込んだ。悲鳴は粘液と舌の肉圧によって完全に塞がれ、結衣の瞳が限界まで見開かれる。

ズザァアアアッ!

ものすごい力で引っ張られ、結衣の体は宙を舞った。そしてそのまま、大きく開かれた怪物の口の中へ、頭から真っ直ぐに引きずり込まれていく。
「んぐっ! うーーっ、うううううっ!!」
暗闇。強烈な生臭さ。全身を包み込む、温かくも恐ろしい消化液の感触。結衣の顔が、胸が、腰が、足が、次々と怪物の食道へと飲み込まれていく。抵抗する間もなく、怪物の強靭な筋肉の蠕動運動が、結衣を喉の奥、胃袋へと一気に押し込んだ。
ゴクリ、と。
大きな喉仏が上下し、路地裏には再び静寂と、冷たい雨の音だけが戻った。

怪物の腹部は、結衣およそ一人分の体積の分だけ、異様に大きく膨れ上がっている。
ゆっくりと、捕食と同時に「分解」と「再構築」のプロセスが開始された。

怪物の体内で、結衣の肉体はドロドロのゼリー状に溶かされてゆく。しかしそれは単なる消化・吸収ではない。細胞一つ一つの設計図を読み取り、脳のシナプスの結合状態をスキャンし、怪物の細胞をその設計図通りに再構成するための緻密なプロセシングだ。
その過程で、怪物は生体構築に不要で消化できない無機成分や繊維質——結衣が身につけていた衣服や持ち物——を体外へ排出した。

ゲボァッ。

粘液にまみれたセーラー服、プリーツスカート、下着、ローファー、そして通学カバンが、濡れたアスファルトの上に無惨に吐き出される。
直後、怪物の姿が激しく波打ち始めた。
緑色の粘液に覆われていた皮膚が、急速に色を変えてゆく。ボコボコと泡立つように輪郭が崩れ、体積が収縮し、真っ白で滑らかな人間の肌の色へと変貌する。
短い四肢がメキメキと音を立てながら伸び、関節の位置が人間のそれに合わせて移動していく。指先が分かれ、爪が形成される。頭部の骨格が収縮し、カエルのような平たい顔面が、人間の少女の丸みを帯びた輪郭へと整えられてゆく。
頭頂部からは黒く艶やかな毛髪が急速に生え揃い、肩口まで伸びる。大きな眼球は小さくなり、人間の瞳孔と虹彩を持った眼球パーツが精巧に作られていく。
体内もまた、驚くべき速度で再構築されていた。心臓、肺、胃腸、血管、神経のネットワーク。人間と全く同じ見た目、全く同じ配置で、内臓器官が形作られる。だが、それはあくまで「形を模している」だけであり、実際に人間の臓器として機能しているわけではない。呼吸をしなくても死ぬことはなく、心臓が脈を打つのは血の代わりに特殊な体液を循環させるための擬似的なポンプ運動に過ぎなかった。

数分後。
路地裏の暗闇の中に、一糸まとわぬ姿の一人の少女がうずくまっていた。

「……ん……っ」

結衣——いや、結衣に擬態した怪物が、ゆっくりと瞼を開いた。その瞳には、先ほどまでの怯えた少女のものと同じ光が宿っている。
脳の構造と記憶を完全にコピーしたことで、怪物の中には「自分は高校二年生の結衣である」という強烈な自己認識が芽生えていた。元々の怪物には確固たる自我が存在しなかったため、コピーされた結衣の意識がそのまま、表面上の人格としてスムーズに稼働を始めたのだ。

「う、あれ……?」

彼女はフラフラと立ち上がり、自身の体を見下ろした。
肌に冷たい雨粒が当たる。見下ろせば、足元には水たまり。

「きゃっ!?」

彼女はとっさに身を縮め、腕で胸元と下半身を隠した。自分が全裸であること、そして何故か体中がぬるぬるとした粘液のようなもので濡れていることに気づき、激しく動揺したからだ。

「なんで……私、服……?」

困惑する結衣(怪物)。つい先ほどまでの記憶——自分が怪物の舌に巻きつかれ、暗い口の中に引きずり込まれたという決定的な記憶は、擬態の過程で意図的に「ブロック」されていた。自己同一性を保ち、潜伏状態を維持するための本能的かつプログラム的な処理だ。「突然眩暈がして倒れてしまい、気づいたら服が脱げていたし雨に濡れていた」というような、曖昧で都合の良い解釈が、取り込まれた脳の機能によって高速で捏造されていた。
それは、取り込んだ脳の記憶から、その場に適した反応を「出力」しただけのものである。中身である「怪物」にとっては羞恥心など存在するはずもないのだが、結衣の外ガワは、完全に結衣と同じ反応を示す。

「最悪……誰かのいたずら……?」

彼女は震える手で、足元に落ちていた自分のセーラー服と下着を拾い上げた。粘液でドロドロになっていたが、雨水でなんとか洗い流せる範囲だった。
周囲をキョロキョロと見回し、誰もいないのを確認すると、大急ぎで下着を身につけ、ブラウスのボタンを留め、スカートを履く。濡れた服がさらに冷たく張り付くが、全裸でいるよりはマシだった。
カバンを拾い上げ、肩にかける。

「早く、帰らなきゃ……お母さんに怒られる……」

結衣の記憶が、結衣の日常へと帰還するように彼女を促す。
彼女は自分がもはや完全な人間ではないという自覚を微塵も持たないまま、足早に路地裏を抜け、いつもの通学路へと戻っていった。街灯の下を歩くその姿は、後ろ姿から見れば、部活帰りに雨に降られた可憐な女子高生そのものである。

しかし。
すれ違った車のヘッドライトが彼女の顔を照らした瞬間、ごく僅かな異常が垣間見えた。
彼女の目は、時折パチリと瞬きをした瞬間に、カエルのような黒一色の眼球へと反転し、瞳孔が細い「ひし形」に変形しているのだ。そして数秒すると、また澄んだ人間の瞳に戻る。
冷たい雨を浴びているにもかかわらず、彼女の唇は寒さとは無関係にかすかに震え、ケロケロ……と微かな湿った音を無意識に漏らしている。
さらに、ふくらはぎや腕に生えている細い産毛が、雨に濡れながらもすべて逆立つようにそば立っていた。それは人間の自律神経によるものとは全く違う、周囲の湿度や環境変化を敏感に感知しようとする爬虫類や両生類に近い防衛反応だった。

「うぅ、寒い……早くお風呂入ろっと」

自分が変異生物であることに全く気がつかないまま、彼女は自宅のマンションへと向かって歩き続ける。
これ以上に、人類を侵略するような壮大な目的があるわけでもない。研究所から逃げ出した一つの失敗作は、ただ「結衣」という少女として世界に馴染み、結衣の日常を完璧に擬態して生きていくだけなのだ。
誰もその空恐ろしい事実に気がつかないまま、静かに、一人の人間の模倣が始まった。