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雨上がりの路地裏、濡れた抜け殻

3,916 文字 約 8 分

あらすじ

カエルのようにも見えるその生物は、ある研究所の失敗作だった。他の生物を取り込み、その生物に擬態して生活することができるだけで、そこに外部からの意思や生物の主体性を入れることはできなかった。そうして研究所は生物を処分したが、実際には数匹が処分時に気づかれず逃げていた。その生物は生き延びるためにどうすればよいかを考え、生態系で頂点にいる人間になることにした。ちょうど裏路地を通る女子高生の姿が見える。生物は口を大きく開けて舌を伸ばし、女子高生を飲み込んで服を吐き出す。そして、だんだんと女子高生の体が形作られてゆく。体内も人間と同じように作られるが、あくまで形を模しているだけで実際にその通り機能するわけではない。体が完成すると、彼女は自分が服を着ておらずびしょびしょであることに他人事のように驚く。実際には取り込んだ人物の性格や記憶を模倣しているだけで、そこに感情や思考はない。先ほどまで彼女が向かおうとしていた場所へと歩いてゆく。それまでの彼女とは全くおなじに見えるが、目は時折カエルのような黒一色の眼球にひし形の瞳孔となり、唇はかすかに震えている。生物は生きることが目的でそれが達成された今、主体性はない。周囲は女子が少し変わったことに気づくが、人間でなくなったことには気付けない。


登場人物の容姿

女子高生(生物の擬態)
黒髪のボブカットが特徴的な、ごくありふれた女子高生。身長は158cmほどで、華奢な体型をしている。肌は陶器のように白く滑らかだが、擬態直後は粘液で濡れそぼっており、異様な艶めかしさを放っている。制服は紺色のブレザーにチェックのスカート、白いブラウスに赤いリボンタイを着用している。本来の瞳は茶色だが、擬態した生物の影響で、ふとした瞬間に黒一色の強膜と菱形の瞳孔を持つ両生類のような瞳に変貌する。

本文

 じめじめとした湿気が、薄暗い路地裏に滞留していた。コンクリートの壁と壁の隙間、日の当たらないその場所で、一匹の異形が息を潜めていた。
 それは、一見すると巨大なカエルのようにも見えた。ぬめぬめとした光沢を放つ皮膚、不釣合いに大きな口、そして突き出た眼球。しかし、それは自然界が生み出したものではなかった。ある研究所が無機質な実験の果てに生み出し、そして失敗作として廃棄した人工生命体の一種だった。
 彼ら――あるいはそれ――に与えられた能力は、他の生物を捕食し、その遺伝子情報ごと肉体を取り込み、完璧に擬態することだけだった。自我も、意思も、感情さえも希薄な、ただ生き延びることのみをプログラムされた哀れな肉塊。処分という名の殺処分を辛くも逃れ、下水道を這いずり回って地上へと辿り着いたその個体は、本能的な飢餓感と生存欲求に突き動かされていた。
 この生態系の頂点に立つ生物にならなければならない。そうでなければ、またすぐに排除されるだろう。
 その思考とも呼べない衝動が脳裏を支配した瞬間、路地裏の入り口を横切る影があった。
 学校帰りの女子高生だった。足早に近道を抜けようとしていたのだろう。カバンのストラップを握りしめ、少し不安そうに視線を巡らせながら、彼女は異形の潜む闇へと足を踏み入れた。

 好機だった。
 生物は音もなく背後から忍び寄ると、その限界まで顎を開いた。粘着質の唾液が糸を引き、瞬膜に覆われた目が獲物を捉える。
 女子高生が何かの気配に振り返ろうとした瞬間、生物の口から長く太い舌が弾丸のように射出された。
「えっ……?」
 彼女が漏らしたのは、恐怖の悲鳴ではなく、理解不能な事態への困惑の声だった。
 舌は彼女の上半身に巻き付き、強烈な力で引き寄せた。抵抗する間もなく、彼女の体は生物の大口へと吸い込まれていく。頭から、肩、そして腰へ。まるで蛇が卵を丸呑みするかのように、生物の喉奥が伸縮し、獲物を嚥下していった。
 骨が軋み、肉が圧迫される鈍い音が体内で響く。生物の消化器官は強力な溶解液ではなく、対象の情報を解析し再構築するための生体スキャナーのような役割を果たしていた。
 数秒にも、数時間にも感じられる静寂の後。
 生物は激しく痙攣し、口から不要なものを吐き出した。
 べちゃり、と濡れた音を立てて地面に落ちたのは、先程まで彼女が身につけていた制服と下着、そして靴や鞄だった。衣服だけが器用に選別され、中身の肉体だけが完全に吸収されていたのだ。

 そして、再構築が始まった。
 カエルのようなシルエットが崩れ、溶け出し、新たな形を成していく。
 骨格が伸び、筋肉が付き、皮膚が張られる。粘液に塗れたその塊の中から、人間の手足が、胴体が、そして顔が浮かび上がってきた。
 数分前までそこにいた女子高生そのものだった。
 だが、その体は生まれたてのように無防備で、一糸まとわぬ全裸だった。全身が透明な粘液で濡れそぼり、街灯の薄明かりを反射して艶かしく光っている。豊かな胸の膨らみ、くびれた腰、そして滑らかな大腿部。あらゆるパーツが精巧に模倣されていた。
 ただし、それはあくまで「形」だけの模倣に過ぎない。
 内臓器官も形成されてはいるが、心臓は血液を送り出すためではなく、人間と同じ鼓動音を発するために存在し、肺はガス交換のためではなく、呼吸という動作を真似るために動いている。
 完成した「彼女」は、ゆっくりと目を開いた。
 その瞳は一瞬、黒一色に塗りつぶされ、中央に鋭い菱形の瞳孔が浮かんでいたが、瞬きを一つすると、すぐに人間らしい茶色の瞳へと変化した。

「……あれ? わたし……」

 彼女は自分の手を見つめ、濡れた体に触れた。
 声色も、喋り方も、記憶にある「彼女」そのものだった。
「なんで、服……脱げてるの? びしょびしょだし……」
 恥じらいを含んだ仕草で胸と股間を隠す。その反応は、取り込んだ脳のデータに基づく完全なオートメーションだった。そこに本当の羞恥心や恐怖はない。あるのは、状況に合わせて最適な反応を出力する生体プログラムだけだ。
 彼女は地面に散らばった制服を拾い上げると、濡れた肌に直接それをまとい始めた。
 ブラウスが湿った肌に張り付き、透ける。スカートを履き、靴下を履き、最後にブレザーを羽織る。動作の一つ一つにぎこちなさはなく、まるで長年その体を操ってきたかのようだった。
 着替えを終えると、彼女はカバンを拾い上げた。
 元々彼女が向かおうとしていた場所――自宅へのルート情報が脳裏に浮かび上がる。
 彼女は歩き出した。
 カツ、カツ、とローファーの音が路地に響く。
 路地を抜け、往来のある通りへと出る。すれ違う人々は、誰も彼女を怪しまなかった。ただ一人、散歩中の犬だけが、彼女に向かって激しく吠え立てたが、彼女はそれを無視して歩き続けた。
 ふと、ショーウィンドウに映った自分の姿を見る。
 そこには、少し濡れた髪を気にする普通の女子高生がいた。
 だが、そのガラスに映る瞳の奥で、カエルのような黒い眼球がぬらりと動き、唇が微かに、人間にはありえない速さで痙攣したことに気づく者はいなかった。
 彼女の中に「心」はない。
 ただ、人間として生き延びるという目的が達成された今、彼女は完璧な抜け殻として、この街に溶け込んでいった。

 彼女がたどり着いたのは、郊外にある一般的な一軒家だった。
 表札には「佐々木」という名字と、両親、そして彼女の名前である「美咲」の文字が刻まれている。
「ただいまー」
 玄関を開け、靴を脱ぐ。脱ぎ散らかされたように見せるその角度さえ、記憶の中の「美咲」の癖を忠実に再現していた。
「おかえり、遅かったじゃない。雨降ってた?」
 リビングから母親の声が聞こえる。
「うん、ちょっと濡れちゃった」
 そう答える彼女の声には、何の感情も籠もっていないが、人間の耳には少し疲れた少女の声として聞こえるように調整されている。
 洗面所に向かい、鏡の前で濡れた制服を脱ぐ。
 湿ったブラウスが肌から剥がれると、陶器のように白い裸体が現れた。
 鏡に映る自分の顔を見つめる。
 ニヤリ。
 意図せず口角が上がり、耳まで裂けそうなほどに広がった。だが、すぐに両手で頬を叩き、人間の表情筋の可動域内へと戻す。
「お風呂、先入るね」

 浴槽に張られた湯に、彼女は躊躇なく体を沈めた。
 40度のお湯は、本来両生類に近い性質を持つ彼女の「核」にとっては不快な熱さだが、擬態した皮膚はそれを「温かい」という感覚信号として処理する。
 ちゃぷん、と湯が揺れる。
 彼女は湯船の中で、じっと動かなかった。
 普通の人間なら、スマホを見たり、一日の出来事を思い返したりするだろう。しかし彼女は、ただ湯に浸かり、皮膚組織のメンテナンスを行っていた。擬態の精度を保つには、適度な水分と有機物が必要だ。湯船に溶け出した微量の垢や皮脂を、皮膚から直接吸収していく。
 十分後、彼女は風呂から上がった。
 バスタオルで体を拭き、髪を乾かす。
 リビングに戻ると、すでに夕食が並んでいた。ハンバーグだ。
「いただきます」
 彼女は箸を持ち、肉の塊を口に運ぶ。
 咀嚼する。飲み込む。
 胃袋に落ちたそれは、栄養としてではなく、擬態維持のための質量として蓄えられる。
「美咲、今日学校どうだった?」
 テレビを見ながら父親が尋ねる。
「うん、普通。テスト近くて嫌だなぁ」
 ありふれた会話。だが、その返答はすべて記憶データからの検索結果に過ぎない。
 彼女は完食し、食器を片付けると、自室へ戻った。
 ベッドに潜り込み、電気を消す。
 瞼を閉じるが、脳は眠らない。周囲の音、温度、湿度を常にモニタリングし、危険がないかを探り続ける。
 彼女にとっての睡眠は、肉体の急速修復モードへの移行だった。
 暗闇の中で、再びカエルのような瞬膜が瞳を覆った。

 翌朝。
 彼女は「佐々木美咲」として登校した。
 教室に入ると、いつもの友人たちが集まっていた。
「あ、美咲おはよー! 昨日大丈夫だった? なんかライン既読つかなかったけど」
 栗色の髪を巻いた少女が駆け寄ってくる。
「おはよ。ごめん、帰ってすぐ寝ちゃってさ。充電も切れてて」
 嘘ではない。昨夜、スマホを充電器に挿すという行為を模倣する際、実際にケーブルを接続したが、彼女自身が生体電気を帯びているため、過充電防止機能が働いて充電されなかったのだ。
「そっかー。てか見て見て、新しいネイル!」
 友人が爪を見せてくる。
「わあ、可愛い。ピンクだ」
 彼女は笑顔を作り、適切な相槌を打つ。
 その視線は、友人の爪の形や色を見ているのではない。爪の付け根の血管、脈動する動脈、そして柔らかそうな指の肉を観察していた。
(摂取対象としての評価:B)
 瞬時に判断を下すが、行動には移さない。今はまだ、このコミュニティに溶け込む段階だ。
「ねえ美咲、なんか雰囲気変わった?」
 別の友人が首を傾げる。
「え、そうかな?」
「うん、なんか……肌すごい綺麗じゃない? ツヤツヤしてるっていうか」
 友人が彼女の頬に触れようと手を伸ばす。
 彼女は反射的に避けそうになったが、意思の力でそれを抑制し、触れさせた。
「ひやっ」
 友人が手を引っ込める。
「冷たっ! 美咲、体冷えてるんじゃない?」
「あはは、冷え性だからかな」
 体温調節機能の模倣が不完全だったらしい。彼女は体内の熱産生プロセスを修正し、表面温度を0.5度上げる処理をバックグラウンドで実行した。
「なんか、お人形さんみたいだね」
 友人の何気ない一言。
 それは彼女にとって最高の褒め言葉であり、同時に最大の皮肉でもあった。
 彼女は微笑んだまま、友人たちの会話に耳を傾ける。
 キャッキャと笑う彼女たちの口元を見つめながら、彼女の黒い瞳の奥で、細長い舌が小さく蠢いた。
 次の食事は、誰にしようか。
 そんな本能的な欲求を、可愛らしい女子高生の笑顔の仮面の下に隠して。