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棄てられた人形と背後の恋人

5,686 文字 約 12 分

あらすじ

ある男性がアパートに引っ越す。押し入れのなかに古い外国製の人形が残されており、捨て忘れだと思って捨てる。
ある日の夜に電話がかかってくる。そして電話を聞いた後、都市伝説でよく聞く”メリーさんの電話”だと思い当たる。
男性はドアの鍵を閉め、壁に背中をつけて対策を取る。そしてメリーさんはどんどん近づいてきて、最後には男性の後ろまでやってくる。
しかし特に何も起こらず、いたずら電話か何かだったのだろうと思うことにする。
実際には変化が起きており、男性の顔・体・服は人形の少女のものになっている。しかし男性は気づくことができない。


登場人物の容姿

佐藤 健太(さとう けんた)
20代後半の平凡なサラリーマン。中肉中背で、特筆すべき特徴のない容姿。黒髪のショートカットに、普段はスウェットなどのラフな部屋着を着ている。性格は少し神経質だが、超常現象などは信じない現実主義者。

メリーさん(人形)
身長140cmほどのビスクドール。透き通るような白い陶器の肌を持ち、金色の長い巻き髪が特徴。瞳は深い蒼色のガラス玉でできている。服装は真紅のベルベット素材で作られた、フリルとレースがふんだんに使われたヴィクトリア朝風のドレス。足元は白いレースのタイツに黒いエナメルのストラップシューズを履いている。精巧に作られているが、どこか不気味な生々しさを帯びている。

本文

 三月の引っ越しシーズン。佐藤健太は、都内にある築三十年の木造アパートに引っ越してきた。家賃の安さが決め手だったが、部屋は意外と広く、リフォームも最低限済んでいるようで小綺麗だった。
 荷解きを始めて数時間、押し入れの奥に見慣れない木箱があることに気づいた。前の住人の残置物だろうか。埃を被った箱を開けると、そこには古びた西洋人形が鎮座していた。
 金色の巻き髪に、吸い込まれそうな蒼い瞳。真紅のドレスは埃一つついておらず、不気味なほど鮮やかだった。
「……気持ち悪いな」
 骨董的価値がありそうにも見えたが、健太は生理的な嫌悪感を覚えた。誰かの忘れ物かもしれないが、こんな不気味なものを部屋に置いておきたくない。彼は迷わずその人形をゴミ袋に詰め込み、マンションの敷地内にあるゴミ集積所へと放り込んだ。

 それから三日が過ぎた、雨の降る夜だった。
 残業で疲れ果てて帰宅した健太が缶ビールを開けたその時、スマートフォンが震えた。
『非通知設定』
 画面に表示された文字を見て、健太は首をかしげる。こんな時間に誰だろう。営業の電話か、あるいは間違い電話か。
「はい、もしもし」
『……あたし、メリーさん。今、ゴミ捨て場にいるの』
 幼い少女のような、しかしどこか平坦で抑揚のない声だった。
「は?」
 プツン、と電話は切れた。
「なんだよ、イタズラか……」
 健太はため息をつき、ビールをあおる。そういえば、そんな都市伝説があったな、と思い出した。人形を捨てると電話がかかってくる怪談。まさか、あに人形を捨てたことと関係があるのか。
 馬鹿馬鹿しい。誰かが俺が人形を捨てるのを見ていて、からかっているに違いない。
 しかし、五分後。再び電話が鳴った。
『……あたし、メリーさん。今、タバコ屋の角にいるの』
 心臓がドクリと跳ねた。ゴミ捨て場からタバコ屋までは、アパートへの最短ルートだ。
 近づいている。
 健太は立ち上がり、玄関の鍵を確認した。チェーンもしっかりとかかっている。窓もロックした。ここは二階だ、簡単には入ってこられないはずだ。
 再び電話が鳴る。
『……あたし、メリーさん。今、アパートの入り口にいるの』
 背筋に冷たいものが走る。冗談にしては手が込みすぎている。
 健太は部屋の中央に立ち尽くし、冷や汗を拭った。どうする。警察に通報するか? いや、イタズラ電話で警察が動いてくれるわけがない。
 四回目の着信。
『……あたし、メリーさん。今、玄関の前にいるの』
 ドアの向こうに、気配を感じる気がした。静寂の中に、雨音だけが響いている。
 健太はパニックになりかけていた。都市伝説通りなら、次は部屋の中に入ってくる。
「くそっ、ふざけやがって!」
 彼は恐怖をごまかすように叫び、部屋の壁際へと後ずさった。背中を壁にぴったりと押し付ける。これなら、背後を取られることはない。
 壁に張り付いたまま、スマートフォンを握りしめる。
 そして、五回目の着信があった。
 震える指で通話ボタンを押す。
『……あたし、メリーさん』
 声は、受話口からではなく、もっと近くから聞こえたような気がした。
『今、あなたの後ろにいるの』
 その瞬間、健太は息を止めた。
 後ろ? 後ろには壁しかないはずだ。壁の中にいるとでもいうのか。それとも、背中の隙間に?
 恐怖で全身が硬直した。振り返ることも、逃げることもできない。ただ、背後に何かが「いる」という感覚だけが膨れ上がる。
 ……しかし、数秒が経ち、数分が経っても、何も起こらなかった。
 ナイフで刺されるわけでも、首を絞められるわけでもない。
 恐る恐る、健太は目を開けた。
 部屋には誰もいない。静かな空間が広がっているだけだ。
「……なんだ」
 健太は大きく息を吐き出し、壁から背中を離した。
「脅かしやがって……やっぱりただのイタズラか」
 全身の力が抜け、その場にへたり込みそうになる。極度の緊張から解放され、安堵感が押し寄せてきた。
 彼は気づいていなかった。
 壁から離れたその瞬間、彼が着ていたスウェットが、重厚な真紅のベルベットドレスに変わっていることに。
 男らしい筋肉質な腕が、陶器のように白く滑らかな球体関節の細腕に変わっていることに。
 そして、鏡に映るであろうその顔が、あの捨てたはずの人形そのものになっていることに。

「ああ、くそ。変な汗かいちまったよ」
 健太は不快そうに呟き、胸元を寛げようとした。しかし、彼の手は幾重にも重なったレースの襟飾りに触れているだけだった。だが、健太の脳内では、いつものスウェットの襟を掴んでいるという認識だった。
「シャワー浴びるのも面倒だな……」
 彼は立ち上がると、ふらりとベッドへ向かった。歩くたびに、ドレスの裾がカサカサと衣擦れの音を立てる。白いレースのタイツに包まれた足が、赤い絨毯の上を踏みしめる。
 ベッドに腰を下ろすと、健太はふぅ、と息をついた。
 恐怖で高ぶった神経は、安心と同時に奇妙な高揚感を帯び始めていた。
「……ムラムラするな」
 極限状態からの生還が、性的な興奮を呼び起こしたのだろうか。健太は自嘲気味に笑うと、自身の下半身へと手を伸ばした。
 彼自身の感覚では、スウェットの上から自身のモノをまさぐるつもりだった。
 しかし、実際には、白く細い陶器の指が、幾層にも重なるスカートとパニエを捲り上げている光景があった。
「あ……」
 健太の口から、鈴を転がすような可憐な吐息が漏れる。自分では野太い男の溜息のつもりだったが、部屋に響いたのは少女の艶めいた声だった。
 彼の手が触れたのは、男性器ではなく、つるりとした陶器の股間だった。精巧なビスクドール特有の、なだらかな曲線を描く恥丘。そこには何もない。ただ、美しく磨かれた無機質な割れ目が一本、刻まれているだけだ。
 だが、健太の脳はそれを「勃起した自身の肉体」として認識していた。
「くっ……いい……」
 陶器の指先が、その冷たく硬い割れ目をなぞる。カチ、カチ、と微かな硬質な音が鳴る。
 本来なら感じるはずのない快感が、脳の誤認によって健太の全身を駆け巡った。
 彼はベッドに仰向けに倒れ込み、ドレスのスカートを大きく広げた。真紅の布地が花の開くように広がり、その中心で白いレースのドロワーズが剥ぎ取られ、無垢な球体関節の脚が露わになる。
 ビスクドールの身体構造には、人間のような柔らかさも温かさもない。しかし、健太は熱に浮かされたように腰をくねらせた。
 ギギ、ギィ、と関節が擦れる音が、微かに部屋に響く。
「っ、ああ……逝く……ッ!」
 激しく指を動かす。陶器同士が擦れ合う乾いた音が早くなる。健太の意識の中では、自身の手が激しく肉棒を扱いている感覚だったが、傍から見れば、美しい人形が自身の股間に指を押し付け、空虚な摩擦を繰り返しているだけの狂気的な光景だった。
 そして、絶頂が訪れた。
「ああっ、あぁぁぁーーッ!」
 人形の喉から、高く澄んだ絶叫がほとばしる。
 ビクン、と小さな体が弓なりに反り、金色の髪がシーツに散乱した。蒼いガラスの瞳は虚空を見つめたまま、微動だにしない。表情は変わらず、ただ口元だけが微笑むように固定されている。射精などあるはずもない陶器の体だが、健太は果てた充足感に包まれていた。
「はぁ、はぁ……」
 荒い作り物の呼吸音が静寂に戻った部屋に響く。
 健太は脱力し、だらりと手足を投げ出した。その姿は、子供が遊び疲れて放り出した人形そのものだった。
「……寝よ」
 彼はドレスのまま、布団もかけずにその場で瞼を閉じた――つもりだった。しかし、ガラス玉の瞳は閉じられることなく、天井のシミを映し続けている。
 彼は気づかない。
 自分がもう人間ではないことも、二度と動くことも喋ることもできない「モノ」に変わり果ててしまったことにも。
 部屋の隅には、彼が今日買ってきたばかりの缶ビールが、開けられることなくぬるくなっていた。そして、誰もいないはずのアパートの部屋で、真紅のドレスを着た美しい人形だけが、幸せそうな永遠の沈黙の中に横たわっていた。

 翌朝、けたたましいアラームの音で佐藤健太は目を覚ました。
「ん……あと五分……」
 健太は呻きながら体を起こそうとした。体は鉛のように重く、節々が軋むように痛い。昨夜の悪夢のような出来事と、妙にリアルだった自慰の記憶がおぼろげに残っていたが、二日酔いのような気だるさが思考を鈍らせていた。
 カチリ、と硬質な音がして、彼は上半身を起こした。
「……体が硬いな」
 首をゴキリと回す。実際には、球体関節が回転する乾いた音がしただけだが、健太はそれを寝違えた痛みだと解釈した。
 起き上がると、彼は日課である身支度を始めた。
 鏡の前に立つ。そこに映っているのは、真紅のドレスに身を包んだ、金髪碧眼の美しいビスクドールだった。
 だが、健太の目には、いつもの寝癖のついた冴えない自分の顔が映っていた。
「顔色が悪いな。飲みすぎたか」
 彼はそう呟くと、顔を洗おうと洗面台に向かった。
 冷たい水を出そうと蛇口に手を伸ばす。白磁の指先がハンドルに触れ、滑りそうになりながらも器用に捻る。
 顔を濡らす。水滴が陶器の肌を弾き、コロコロと転がり落ちていく。タオルで拭う必要すらないほどだったが、彼はゴシゴシとタオルを顔に押し付けた。レースやフリルが邪魔だったが、彼は気にも留めない。
 次に着替えだ。
「今日は大事な会議があるんだった」
 彼はクローゼットからダークグレーのスーツを取り出した――つもりだった。
 実際には、彼は着ている真紅のドレスの皺を丁寧に伸ばし、リボンを整えただけだった。しかし彼の脳内では、ワイシャツに袖を通し、ネクタイを締めているのと同じ手順を踏んでいた。
「よし、行ってきます」
 カツン、カツン、と、黒いエナメルのストラップシューズを履いた足が、玄関のたたきを鳴らす。
 ドアを開けると、眩しい朝日が差し込んできた。

 通勤ラッシュの電車はいつものように混雑していた。
 駅のホーム。サラリーマンや学生たちが溢れる中で、フリルとレースの塊のようなゴシック調のビスクドールは、異様な存在感を放っていた。
 しかし、誰も彼を見なかった。
 正確には、視界には入っているはずなのに、意識から完全に除外されているようだった。まるで彼がそこに存在し、風景の一部であることが当たり前であるかのように。
 プシュー、とドアが開き、健太は車内へと乗り込んだ。
 満員電車独特の圧迫感。四方八方から他人の体が押し付けられる。
「くっ、今日は一段と混んでるな」
 背後からぐい、と誰かの鞄が押し当てられる。
 本来なら不快なだけの感触だが、人形の体になった健太にとっては、それは奇妙な感覚をもたらした。
 硬い陶器の肌越しに伝わる振動。そして、ドレスの厚い布地越しに、後ろのサラリーマンの股間が押し当てられているのがわかった。
「ちょっ、押さないでくださいよ……」
 健太は心の中で毒づいたが、口から漏れたのは「ア、ア」という愛らしい音だけだった。
 電車が揺れるたびに、背後の男の肉体が、健太の(人形としての)小さな背中や腰に擦り付けられる。
 カチ、カチ。
 関節が他人の体と干渉して音を立てる。
 押し付けられる熱気。人形であるがゆえに体温を持たない健太の体は、周囲の熱を敏感に感じ取っていた。
 特に、ドレスのスカートの中。無防備な白いストッキングの脚の間に、隣の女性のバッグの角が食い込んでくる。
「ん……」
 不意に、股間の割れ目に何かが触れる感触があり、健太は背筋を震わせた。
 ただの揺れによる接触だ。だが、昨夜の快感を記憶している「脳」と、性感帯など存在しないはずの「体」が、奇妙な化学反応を起こしていた。
(なんだ……この感じ……)
 陶器の股間に圧力がかかるたびに、頭の芯が痺れるような感覚が走る。
 彼は吊革に掴まろうと手を挙げた。その白く細い腕が、中年男性の背広の肩に触れる。男性は気にする素振りも見せない。
 誰一人として、満員電車に揺られる等身大のフランス人形を不審に思っていなかった。

「おはようございます」
 オフィスに入ると、健太は元気に挨拶をした。
 鈴を振るような高い声がフロアに響く。
「あれ、佐藤くん、おはよう。早いね」
 同僚の男性が、コーヒー片手に声をかけてきた。
 彼は、健太の姿――金髪の巻き髪、深紅のドレス、ガラスの瞳――を真っ直ぐに見ながら、いつも通りの笑顔を向けている。
「ええ、今日はちょっと準備がありまして」
「真面目だなぁ。あまり根詰めすぎないようにな」
 上司も通りがかりに、健太の頭をポンと叩いた。
 ゴッ、と硬い音がした。人間の頭蓋骨ではありえない、中身が空洞の焼き物を叩く音だ。
 しかし上司は気にもとめず、そのまま自分の席へと歩いていく。
 健太は自分のデスクに座った。
 椅子に座ると、パニエとスカートが大きく広がり、隣の席の領域まで侵食する。
「すみません、ちょっと荷物が」
 健太はスカートを「荷物」だと思いながら押し込んだ。
 パソコンの電源を入れる。
 仕事が始まった。
 カチャカチャカチャ……。
 キーボードを叩く音に混じって、カチ、カチ、という指関節の衝突音が鳴る。
 白磁の指は人間よりも細く、硬い。キーを打つたびに爪先(といっても指先と一体化した塗装だが)が盤面を弾く。
 モニターを見つめる蒼いガラス玉の瞳は、瞬きをしない。
 ドライアイになることもなければ、疲れることもない。
 健太は驚異的な集中力で仕事をこなしていった。
「佐藤くん、これコピー頼める?」
「はい、喜んで」
 女性社員に頼まれ、健太は立ち上がる。
 くるりと振り返ると、ドレスの裾がふわりと舞い、レースが空気を孕んだ。
 その優雅で非現実的な動きに、誰も違和感を抱かない。
 コピー機の前で、健太は紙をセットする。
 ふと、ガラスに映った自分の姿が目に入った。
 そこには、真紅のドレスを着た無表情な人形が映っている。
(今日の俺、ちょっと顔色が白すぎるかな……)
 健太は自分の頬――冷たく滑らかな陶器の頬――を、硬い掌でパンパンと叩いた。
 カン、カン、と高い音が響く。
「よし、気合入れないと」
 彼はそう呟くと、再び業務へと戻っていった。
 誰も気づかない。
 彼がもう、人ではないことに。
 この異常な光景が、日常として受け入れられている狂気に。
 佐藤健太の人生は続いていく。
 美しく、物言わぬ、愛玩人形として。