NPCの学校
あらすじ
突如、ある学校に通う生徒や教員・そこに関係する人々が、ゲームのNPCのように予め決められた行動や会話をするだけの存在に変わる。学校の周囲の人々は誰もそれに気づいていない。
その学校の近くに住んでいる、フリーターの男性。学校の生徒達に違和感を覚え始める。
登場人物
柏木 拓也(かしわぎ たくや)
二十六歳のフリーター。中肉中背で、黒髪をやや伸ばしてゆるく後ろへ撫でつけている。目元が鋭く、口数が少ない。アルバイトを転々としながら、市内の古い集合住宅に一人で住んでいる。社会への関心は薄く、日常にも特段の不満はない。退屈をただやり過ごすような生き方をしており、道徳観や倫理観はほとんど持ち合わせていない。
篠崎 凜(しのざき りん)
十七歳、私立桐陽女子高等学校の二年生。長い黒髪を肩下で揃えたストレートヘア、切れ長の目と色白の肌が際立つ端正な顔立ち。制服は紺のブレザーに白のブラウス、チェック柄のミニスカート。文芸部に所属していた才媛で、もとは独自の思考を持つ芯の強い少女だったが、NPC化以降はそのようなものは一切失われている。
葛城 由佳(かつらぎ ゆか)
二十八歳、桐陽女子高等学校の国語教員。肩まで伸ばした茶色のボブカットで、アーモンド形の目をしている。身長はやや高めで、スラリとしたスタイル。グレーのスーツにヒールパンプスというきっちりした服装が常。かつては情熱的に生徒と向き合う教諭として知られていたが、今はただ定刻に教室に立ち、教科書のテキストを読みあげるだけの存在になった。
本文
柏木拓也が最初に違和感を覚えたのは、ある平日の昼下がりのことだった。
コンビニエンスストアからの帰り道、通学路にぶつかる交差点で立ち止まった彼は、向こうから歩いてくる数人の女子高生を眺めていた。紺のブレザーに短いチェックのスカート、白いソックス。いかにも私立女子校の生徒といった風体の彼女たちは、一見するとどこにでもいる学生に見えた。
だが何かがおかしかった。
彼女たちは三人組だった。歩きながらも誰一人として口を開かない。スマートフォンを見るでもなく、互いに目を合わせるでもなく、ただまったく同じリズムで、全員が同じ方向をぼんやりと見つめながら歩いている。三人の足音がぴたりと揃っていた。靴底が歩道を叩く音が、まるで一人の人間の音のように単調に繰り返される。
拓也は無意識のうちに立ち止まって、その三人組をじっと見送った。
翌日も、また翌日も、彼は意識して周囲の人間を観察するようになった。近くにある私立桐陽女子高等学校のあたりだけが、奇妙なのだ。通学路を行き来する生徒たちは皆、一様にぼんやりとした表情をしている。口角は微妙に上がっているが、まるでそういう設定を与えられたかのような、感情のないにこやかさだ。声を聞いたことがない。ぶつかりそうになっても誰もよけない。電柱にぶつかるその寸前で、まるで見えない壁に阻まれたかのように自動的に軌道を修正して歩き続ける。
拓也はある夜、学校の塀の外からスマートフォンで動画を撮った。翌朝に確認してみると、グラウンドで体育の授業を受けている生徒たちが映っていた。全員が教師の指示通りに動いている。それ自体は当然だが、指示と指示の間に微妙な「待ち」がある。生徒たちはその間、まったく動かない。しゃべらない。誰かと目を合わせたりしない。次の指示が来た瞬間、まるでスイッチを入れたかのように一斉に動き出す。
——こいつら、本当にNPCみたいだ。
その比喩が頭に浮かんだとき、拓也はふいに可笑しさを感じた。ゲームのNPCというやつは、プレイヤーが話しかければセリフを返し、一定のルートをただ歩き、イレギュラーな事態には対応できない。ゲームの文脈から外れた行動を取られると、そもそも反応するためのプログラムが組まれていないから、何もしない。されるがままになるだけだ。
そのとき拓也の頭の中に、ひとつの考えが生まれた。
もしも本当にそうなら——性的なことをしても、反応しないのか。
その考えは、道徳的にどうだとか、そういう感情とは全く切り離されたところで、純粋な「実験」に対する好奇心のようなものだった。良いとか悪いとか、そういうことを拓也はあまり気にしない人間だった。
翌朝、拓也は制服を手に入れた。ネットで探すと古着の男子制服がすぐ見つかった。桐陽女子のものではなかったが、どうせ中に入ってしまえば関係ない。帽子で髪を隠し、ID代わりに使えそうな社員証に似た小道具を胸ポケットに差し込んで、彼は昼前に学校の裏口へ向かった。
裏口の前に一人、女子生徒が立っていた。篠崎凜、と後から知ることになった少女だ。長い黒髪が風に揺れているのに、本人はまったく気にしていない。ぼんやりと正面を向いたまま、何かを待っているように立ち尽くしている。
拓也は少し観察した後、声をかけた。
「ここ、関係者以外立ち入り禁止?」
少女は即座に振り向いた。目が合う。表情は変わらない。
「こちらは教職員専用通路です。生徒の方は正面玄関からお願いします」
それだけ言って、また前を向いた。拓也が動かなくても、立ち去らなくても、少女はそれ以上何も言わない。返答を求めるための「こちらを向く」という動作自体が、既に終わっている。
——本当にNPCだ。
拓也は少女の隣に立った。彼女の肩と自分の肩が数センチの距離まで近づいても、少女は動じない。視線すら向けてこない。拓也は少女の黒髪に触れた。指でそっとすくって、梳かすように動かす。
少女は動かなかった。
セリフも出なかった。
ただそこに立っているだけだった。
拓也が正門ではなく裏口から敷地内に入るのは容易だった。誰も咎めなかった。すれ違う生徒も教員も、拓也の存在が「状況の文脈に収まるもの」として処理されているのか、無視に近い形でやり過ごしていく。廊下を歩いても誰も振り返らない。
放課後の気配が漂い始めた静かな校舎を、拓也はゆっくりと歩いた。
空き教室に一人でいる女子生徒を見つけたのは、三階の東端の部屋だった。おそらく文芸部の部室だろう、本棚と小さな机が並ぶその部屋に、篠崎凜が座っていた。先ほど裏口で声をかけた少女だ。机の上に原稿用紙を広げ、シャープペンシルを持っているが、書いていない。ただ机の一点を見つめている。
拓也は扉を開けて、中へ入った。
凜は顔を上げた。
「部外者の方はお入りいただけません」
それだけ言って、また原稿用紙に視線を落とした。書き始めない。ただ見ている。
拓也は凜の後ろへ回り込んだ。彼女の椅子の背を両手でつかみ、ゆっくりと後ろへ引く。椅子ごと凜の体が引き寄せられるが、凜はそれに対して何の反応も示さない。抵抗もしない。立ち上がろうとするでもない。ただ原稿用紙の方向を向き続けようとしているかのように、首だけが前を向いている。
拓也は凛の肩に手を置いた。白いブラウス越しに、細い肩の骨格が感じられる。
「嫌か?」
凜は答えなかった。返答するためのトリガーが存在しないのか、それとも質問として認識されなかったのか、あるいはその両方か。ただ静かに座っているだけだった。
拓也はブレザーの肩をそっとずらした。凜は動かない。ブラウスのボタンを上から順番に外していく。凜はセリフを言わない。抵抗をしない。外した先から見えてくる白い肌に、どんな感情的反応も示さない。胸元が露わになる。それでも凜はただ正面を向いている。
シャープペンシルが机の上に静かに転がり落ちた。凜は拾おうとしなかった。
部屋の外では、廊下を歩く生徒の足音がしていた。複数。一定のリズムで、規則的に遠ざかっていく。教室の扉は閉まっているが鍵はかかっていない。誰かが開けるかもしれない。
拓也はそれを気にしなかった。仮に誰かが扉を開けたとして、このNPCたちには、「部屋の中の異常な状況」に反応するためのプログラムが搭載されていない。そういう文脈での行動パターンは、おそらく存在しない。見てしまったとしても、反応できないままその場を過ぎ去っていくだけだろう。
その予測は、すぐに確かめられることになった。
ちょうど拓也が凜のスカートに手をかけたとき、扉がゆっくりと開いた。
廊下から別の女子生徒がひとり入ってきた。目が合う。少女はちらりと拓也を見た。次に凜を見た——ブラウスを開けられ、スカートを捲りあげられかけている凜を。
少女は動きを止めた。一秒。二秒。
「…先約がいるんですね」
そう言って、扉を閉めて出ていった。
拓也は思わず笑いが漏れた。「先約」というセリフは何の文脈から来たのか、全く謎だったが、とにかく何もしなかった。助けようともしなかった。騒ぎを起こそうともしなかった。ゲームで言えば、「会話トリガー」が起動して、次のエリアへと自動的に移動したに過ぎない。
凜の制服を完全に脱がせた状態で、拓也は彼女を部室の床に横たえた。凜は横たえられたままの姿勢で前方を向いている。目は開いている。瞬きはある。呼吸もしている。だがそこに意思はない。
肌は白く、細い。高校二年生の体だ。触れるたびにわずかに体温が伝わってくるが、それ以外の反応は何もない。声も出ない。身じろぎもしない。予め決められた状況以外への応答が、そもそも存在しないのだ。
拓也は慌てず、ゆっくりと凜の体を確かめるように触れていった。腰のくびれ、太ももの内側、まだ成熟しきっていない輪郭。どこに触れても凜は反応しない。目線が動かない。口元がわずかに開いているのはおそらくデフォルトの状態で、意味を持たない。
やがて拓也は凜の上に乗り上がり、体を重ねた。
その瞬間も、凜はセリフを言わなかった。
痛みの声も、許容の声も、何も出なかった。ただ、天井のあたりをぼんやりと見つめながら、されるがままになっている。拓也が動くたびに体がわずかに揺れるが、それは受動的な物理的反応に過ぎない。
外では部活終わりの生徒たちが廊下を行き来していた。笑い声はない。叫び声もない。ただ整然と、決められた動線を、決められた時間に人が流れていく音だけがある。
拓也はそれを聞きながら、ゆっくりと動き続けた。
日が落ちかけたころ、拓也は校舎を出た。
着崩した制服を整えながら裏門をくぐると、外の世界は普通だった。車が通り、犬を散歩させている老人がいて、コンビニの袋を提げた主婦が歩いている。誰もこちらを見ていない。学校の中で何が起きているか、外の人間には一切わからない。
拓也は歩きながら、スマートフォンをポケットにしまった。
凜は——おそらく今もあの部室にいる。床から起き上がって、また椅子に座り直して、シャープペンシルを手に取って、原稿用紙の一点を見つめているだろう。何事もなかったように。何事もなかったのと同じだから。
拓也は明日も来ようかと考えた。
今度は、あの国語の教員のほうが面白いかもしれない、とも思った。
翌日の午後、拓也は再び学校に足を踏み入れた。今度は制服を着ていない。普段着のまま廊下を歩いたが、やはり誰も何も言わなかった。
職員室の近くを通ると、廊下に葛城由佳が立っていた。茶色のボブカットが揺れ、グレーのスーツをきっちりと着込んで、廊下の一点を見ながら立っている。授業と授業の間の移動中なのか、それとも次の行動が来るまでの「待機状態」なのか、判断がつかない。
「葛城先生、ですよね」
拓也が名前を呼ぶと、由佳は即座に振り向いた。
「はい、そうですが。どちら様でしょうか」
「ちょっと相談があって」
数秒の沈黙。由佳はじっと拓也を見ている。次の行動を待っている。
「保護者の方でしょうか」
「そうです」
「では職員室へどうぞ」
由佳は歩き出した。拓也は後をついていきながら、その背中を見ていた。ヒールが廊下を叩く音が規則正しい。感情がない。疑念もない。
職員室に入ると、他の教員たちも数人いた。全員が自分のデスクに向かい、書類を処理したり、PCのキーボードを叩いたりしている。誰も拓也を見ない。見ているかもしれないが、状況から逸脱した行動を取る者はいない。
由佳は自分のデスクの横に立ち、向き直った。
「ご相談内容をどうぞ」
——実に簡単だ。
拓也は由佳の机を利用して、職員室の中で由佳を壁際へ誘導した。他の教員たちは誰も見ていない。由佳のスーツの上着に手をかけても、彼女は困惑も抵抗もしなかった。「保護者との面談」が継続しているという文脈の中にいる限り、由佳はそこから外れた行動を起こせない。
「こんな場所ではなく、別室の方が良いですか?」
拓也が試しに言ってみると、由佳は即座に答えた。
「では、隣の応接室をお使いください」
拓也は内心、また可笑しさを感じながら彼女の後に続いた。
隣の応接室は狭く、ソファと低いテーブルがあるだけの部屋だった。由佳が中に入り、拓也が後から扉を閉め、鍵をかけた。
由佳はソファには座らず、テーブルの前に立っていた。
「何でもどうぞ」
拓也は答えず、由佳のスーツの肩に手を置いた。由佳は動かなかった。
上着を脱がせると、白いブラウス。ボタンを外していく。由佳はセリフを言わない。目が前を向いたまま、拓也の顔を見ているような、見ていないような、焦点の定まらない視線でただそこにいる。
スカートのホックを外す手が止まらないのは、由佳が何もしてこないからだ。止めない。避けない。声を上げない。二十八歳の成熟した体が露わになっていっても、彼女の表情は何も変わらなかった。
拓也はゆっくりと、存分に時間をかけて、由佳の体を使った。由佳は最後まで声を上げず、抵抗もせず、ただされるがままだった。行為の間も、彼女の視線はどこか遠くの一点に向いている。その目に何も映っていないように見えた。
外では、チャイムの音が鳴った。
授業の始まりを告げる音が廊下に響き、直後に教室の扉があちこちで閉まる音がした。NPCたちは時間が来れば、決められた場所へ移動する。
応接室の中だけが、止まっていた。
拓也が由佳の体の上で動きを止めたとき、外の廊下からはもう何の音もしなかった。
由佳は天井を向いたまま、目を開けていた。呼吸をしている。それだけだ。拓也が体を起こして服を拾い直しても、由佳は動かない。何も言わない。次に何かアクションが与えられるまで、ただそこで待っている。
拓也は由佳のブラウスを拾い上げて、脱がせた時と逆の順序でボタンをとめた。上着も着せた。整えると、さっきまでの状態が嘘のように、きっちりとした国語教員の姿が戻った。
「ありがとうございました」
拓也がそう言うと、由佳は反射的に答えた。
「いいえ、何かお役に立てたなら幸いです」
拓也は応接室を出た。廊下には誰もいなかった。校舎はまた、規則的な静けさの中にある。
それ以来、拓也は定期的に桐陽女子に通うようになった。
曜日や時間によって、入れる場所や出会う生徒・教員が変わる。拓也はその変化を楽しむようになった。一度侵入したことで、どういう文脈でどこへ行けば咎められないかも、だいたい掴めてきた。教員に「外部業者です」と言えばそれ以上何も問われない。生徒に「廊下の端を歩くと邪魔です」と言えば生徒は元の動線に戻っていく。
彼女たちには「非常時の判断」がない。誰かを助けるという発想がない。助けを求めるという行動もない。
拓也は、人間が全員こういう存在だったならどれほど楽かと思うことが時々あった。しかしすぐに、こんな「特別な場所」があるからこそ面白いのだと気づく。外の世界の人間は感情を持ち、判断し、抵抗し、逃げる。だからこそここが異質なのだ。
学校の外からは、今日も何も見えない。制服を着た少女たちが規則正しく校門から出てきて、それぞれ決められた方向へ歩いていく。すれ違う人々は誰もそれを不思議に思わない。
拓也は交差点の陰でそれを眺め、タバコに火をつけた。
明日は、まだ行ったことのない校舎の棟に入ってみようと思っていた。
おまけ:ある女子生徒の記録
変化前
篠崎凜は、もともとよく喋る生徒ではなかった。
それでも、感情はあった。
朝、友人の松田と昇降口で合流したとき、どちらともなく「昨日のドラマ見た?」と話し始める。凜は見ていないことを少し悔しく思いながら「見てない、ネタバレしないで」と先に言う。松田がわざとらしく意地悪な表情をして「えー、でも気になるでしょ」と畳みかける。凜は「なんで毎回それするの」と半分呆れながら笑う。
そういうやりとりがあった。
授業中はノートを取りながら自分なりの解釈を走り書きする癖があった。教師が板書した内容の隣に「本当にそうか?」と小さく書き込んだり、気になった言葉に丸をつけたりする。文芸部の部室では、自分の書いた短編を読み返して何度も書き直した。納得のいかない表現があると眉をひそめ、良い言い換えが思い浮かんだときには小さくガッツポーズをした。
凜には、好きなものがあった。
読むことと書くこと。雨の日の図書室。コーヒー牛乳よりもストレートの紅茶。話が合う人間と話す時間。それと、松田が珍しく真面目な顔をして相談してくることの、なんとなくの嬉しさ。
帰り道、何気なく空を見上げたとき、夕焼けが今日はやけに綺麗だと思って立ち止まることがあった。スマートフォンで写真を撮ろうとして、でも写真じゃ伝わらないと思ってやめる。それを誰かに話したくて、でも言葉にするのが難しくて、黙ったまま歩き続ける。
そういう内側が、凜にはあった。
変化の日
ある朝、凜はいつも通り目を覚ました。
アラームが鳴って、止めて、布団から出る。洗面台で顔を洗う。朝食を食べて、制服に着替えて、鞄を持って家を出る。
ここまでは、何も変わらなかった。
ただ、玄関の扉を開けた瞬間——何かが、切れた。
正確に言うと、凜はその瞬間を認識していない。認識する「主体」が、その瞬間に消えたからだ。居なくなったのではなく、最初からなかったかのように上書きされた。遮断ではなく、削除だった。
篠崎凜という人間の中にあったもの——好みも、記憶も、感情の動きも、反射的な笑いも、夕焼けを綺麗だと思う感覚も——すべてが、跡形もなく上書きされた。
残ったのは、外側だけだ。
黒髪。白い肌。切れ長の目。ブレザーとブラウスとチェックのスカート。均整のとれた体。それを動かすための最低限のプログラム。
変化後
変化後の凜は、時刻通りに学校に到着する。
昇降口で靴を履き替える。下駄箱の前に松田が立っていても、凜は「おはよう」とは言わない。松田が「おはよう」と言えば、「おはようございます」と返す。それだけだ。「昨日のドラマ——」と松田が話しかけても、それに対応するプログラムが走らない。凜はすでに歩き出している。
松田は一瞬だけ、凜の背中を見た。
——なんか、今日変だな。
そう思ったかもしれない。でも登校の流れの中に戻されて、深くは考えなかった。それが、変化前と変化後のわずかな時間に起きた、最後の「気づき」だった。その翌日には、松田も変わっていた。
授業中の凜は、教師の言葉に適切なタイミングで視線を向け、ノートに指定された内容を書き写す。走り書きはしない。余白には何も書かない。「本当にそうか?」とは考えない。考える機能が、ない。
昼休みは所定の場所に移動し、所定の動作をする。お弁当を開けて、食べる。完食したら蓋を閉める。時間が余れば席に座ったまま待機する。話しかけられれば返答する。話しかけられなければ黙っている。
放課後は文芸部の部室へ行く。椅子に座る。原稿用紙を広げる。シャープペンシルを持つ。
書かない。
書く必要がない。書くための「何か」が、もうどこにもないから。ただ、そのままの姿勢で待っている。
夕方になると荷物をまとめて、部室を出て、廊下を歩いて、校門から出て、所定のルートで家に戻る。道中、空を見上げない。夕焼けの色に気づかない。写真を撮ろうとも思わない。誰かに伝えたいとも思わない。
翌朝、アラームが鳴る。止める。布団から出る。
ただ、それだけだ。
凜が変化したことに気づいた人間は、学校の中には一人もいなかった。
学校の外では——たった一人の男が、交差点の陰で、その変化を眺めていた。
そしてその変化を、楽しんでいた。