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擬態する隣人は感情を持たない

15,108 文字 約 31 分

あらすじ

隕石といっしょにやってきた謎のスライムのような生物。分裂して増殖する。
近くにいる生物の姿と行動を模倣して生活する。生き延びるために強い生物の見た目を取っているだけで、それ以上に目的があるわけでもないようだ。
人間に擬態している個体もいる。ただし生物の見た目を模倣しているだけなので、顔(表情)が動かなかったり、声が出なかったりする。


登場人物

  • 相沢 悠真(あいざわ ゆうま):主人公。20代前半の男子大学生。アパートで一人暮らしをしている。平凡な日常を愛する、どこにでもいる若者。
  • 擬態体(真琴の姿):ヒロイン。隕石群と共に地球へ飛来した、不定形のスライム状宇宙生物。生き延びるため、悠真の隣室に住む女子大生「真琴」の姿を完璧に模倣している。身長158cmほど、黒髪のボブヘアー、白く透き通るような肌と、少しあどけなさを残した可愛らしい顔立ち。均整の取れたスタイルで、胸も程よく大きい。服装すらも自らの体組織を変化させて作り出しており、オーバーサイズのグレーのパーカーとデニムのショートパンツ姿を真似ている。あくまで外見を模倣しただけであるため、表情筋すら動かすことができず常に圧倒的な無表情。発声器官も模倣できていないため言葉を発することはない。構成物質はスライム状だが、質感や体温は人肌を極限まで再現している。

slime makoto reference

本文

 その日の夜、ニュース番組は連日続く「隕石群の飛来」についての報道で持ちきりだった。
 画面の中のアナウンサーが、山奥に落下した隕石から未知の物質が発見されただの、周囲の生態系に影響があるかもしれないだのといった、どこか現実味の薄い言葉を並べている。
 相沢悠真(あいざわゆうま)は、アルバイトの疲れを癒やすために缶ビールを傾けながら、そのニュースをぼんやりと眺めていた。
「未知の物質ねえ……。どうせ、ただの珍しい鉱石とかだろ」
 テレビの電源を切り、悠真は小さく欠伸をした。彼にとって、遠くの山奥で起きた天体ショーの余波よりも、明日の大学の1限のレポートの方がよほど深刻な問題だったのだ。
 だが、その非日常は、想像以上にすぐそばまで迫っていた。

 深夜。コンビニへタバコを買いに行こうと玄関のドアを開けた悠真は、思わず息を呑んで立ち尽くした。
 暗いアパートの共用廊下。切れかかった蛍光灯がチカチカと明滅する下で、隣の部屋に住んでいる女子大生――真琴(まこと)が、ぽつんと立っていたのだ。
「あ、えっと……こんばんは?」
 悠真は戸惑いながら声をかけた。彼女とは、引っ越してきた時に挨拶を交わし、たまに廊下ですれ違えば会釈をする程度の関係だ。深夜にこんな薄暗い廊下で立ち尽くしている理由がわからない。
 真琴はこちらを見た。
 しかし、その動きはひどく機械的だった。首だけが、まるで潤滑油の切れた関節のように、ぎこちない軌道を描いて悠真の方を向いたのだ。
「……真琴さん? その、どうかしましたか? 鍵でも無くしたとか……」
 悠真がさらに問いかけても、彼女は一切の言葉を発さない。
 ただ、じっと悠真を見つめている。
 その顔を見て、悠真は奇妙な違和感を覚えた。
 表情がない。
 驚いているわけでも、怯えているわけでも、怒っているわけでもない。文字通り「無」なのだ。瞬き一つせず、微かな呼吸の気配すら感じさせない。ガラス玉のような真っ黒な瞳が、ただ悠真の姿を映し出しているだけだった。
 さらに言えば、顔色もおかしい。白すぎるというか、血の気が全く感じられない。しかし、肌の表面はまるで加工された美術品のように滑らかだった。
 彼女はゆっくりと悠真の方へ歩み寄ってきた。足音は一切しない。スニーカーを履いているはずなのに、ゴム靴がコンクリートを擦る音すらしないのだ。
 悠真の目の前まで来ると、真琴はぴたりと立ち止まり、再び悠真を見上げた。
「えっと……とりあえず、中に入ります? なんか寒そうだし」
 恐怖よりも、彼女が病気かあるいは夢遊病かなにかで意識が朦朧としているのではないかという心配が勝り、悠真は自室のドアを開けたまま彼女を促した。
 真琴は一瞬ドアの奥の部屋を見つめると、またしても無言のまま、すいっと部屋の中へと滑り込んでいった。

 部屋に入れて明るいLED照明の下で彼女を見ると、違和感はさらに強烈になった。
 彼女が着ているグレーのパーカーやデニムのショートパンツ。それが「衣服」ではないように見えたのだ。布の繊維や縫い目が見当たらない。まるで、彼女の肌から直接服の形をした肉が延長しているような、奇妙なのっぺりとした質感があった。
「適当に座っててください。お茶淹れますから」
 悠真は内心の恐怖を悟られないように努めながら、電気ケトルでお湯を沸かし始めた。
 真琴は言われた通りにベッドの端に座ったが、そこでも姿勢は直立不動だった。背筋をピンと伸ばし、両手を膝の上に置いたまま、わずかな身動きすらせず悠真の動向を追っている。
 マグカップに温かいお茶を注ぎ、彼女に差し出した。
「どうぞ……」
 真琴はマグカップを受け取ろうと手を伸ばした。
 その時だった。
 マグカップの底が彼女の手に触れた瞬間、彼女の手のひらが「ぐにゅり」と形を変えたのだ。
「うわっ!?」
 悠真は驚いてマグカップを落としそうになった。熱いお茶が彼女の手首にこぼれ落ちる。
「あっ、すみません! やけど――」
 慌ててタオルを取ろうと振り返った悠真だったが、次に見せた彼女の反応に完全に思考を停止した。
 熱湯を浴びたはずの彼女の手首は、赤く腫れるどころか、お茶の水分を「吸収」していた。肌の表面がスライムのような半透明の青みがかったゲル状に変化し、水分を内部に取り込むと、ほんの数秒で再び元の白い肌へと戻ったのだ。
 やけどの痕はおろか、水滴一つ残っていない。
「なんだ……これ……」
 悠真は後ずさり、壁に背中を打ち付けた。
 人間じゃない。
 この目の前にいる、真琴の姿をした何かは、決して人間ではない。
 ニュースで言っていた「未知の物質」という言葉が脳裏をよぎった。隕石にくっついてきた宇宙生物。それが、アパートの隣の部屋に住む真琴を襲い、その姿を模倣したのだとしたら。
 恐怖に震える悠真とは対照的に、怪物は何もしてこなかった。
 相変わらず無表情のまま、ゲル状に変化した手元をじっと見つめた後、悠真の方へ視線を戻しただけだ。
 攻撃してくる様子はない。むしろ、その瞳の奥には「不思議なものを観察する」ような、純粋で動物的な興味だけが浮かんでいるようにも見えた。
 この生物は、生き延びるために近くの強い生物の見た目を真似るという。
 きっと、彼女(スライム)にとって、真琴という人間が一番身近な「強い生物」に見えたのだろう。そして今、彼女は「真琴」として悠真に近づいてきた。
「お前……真琴さんじゃない、んだよな?」
 恐る恐る問いかけても、当然返事はない。彼女には声帯がなく、声を出すという概念すら理解していないようだった。
 悠真は意を決して、彼女の手のひらに指を伸ばした。
 もし噛みつかれたら……という恐怖もあったが、彼女は逃げも隠れもしない。悠真の指先が彼女の手のひらに触れた。
 ――柔らかい。
 人間の肌よりもはるかに滑らかで、それでいて適度な弾力がある。冷たいわけではなく、どことなく温もりすら感じられた。それは間違いなく「生き物」の感触だったが、骨や筋肉の芯がない。押せばどこまでも沈み込んでしまいそうな、不思議なゼリーのような柔らかさだ。
 悠真が撫でていると、スライムの真琴はコトン、とその頭を傾けた。
 そして、彼女もおもむろに立ち上がり、悠真に一歩近づいた。

 彼女は悠真の顔に手を伸ばし、その頬をそっと撫でた。
 冷やりとした感触が走る。だが、彼女の手はみるみるうちに悠真の体温に合わせてじんわりと温かくなっていった。環境に、そして接触した相手に最適化していく生態なのだ。
 彼女は悠真の行動を模倣しようとしている。
 悠真は混乱していた。この未知の生物をどうするべきか。警察に連絡すれば、間違いなく研究機関に連れ去られ、解剖される運命にあるだろう。しかし、彼女はただ見よう見まねで生きようとしているだけの無害な存在に見えた。
 悠真の心音が早くなる。極度の緊張と、未知の生物に対する奇妙な好奇心、そして――彼女が「真琴」という可愛らしい女子大生の姿をしているという圧倒的な視覚情報のせいで、彼の下半身は密かに熱を持ち始めていた。
 その体温の上昇と心拍の乱れを、スライムは見逃さなかった。
 近くにいる生物の行動と生態を模倣する彼女にとって、悠真の「興奮」という生理的反応は、これから行うべき行動の明確なサインとして解釈されたのだ。すなわち、このより強大で安全な宿主(あるいは共生相手)との関係を確固たるものにするための、「生殖行動」という手段の提示である。
 真琴の姿をしたスライムは、突如としてその身に変化を現した。
 彼女が着ていたグレーのパーカーとデニムのショートパンツが、音もなく溶け始めたのだ。
「えっ……!?」
 糸がほつれるわけでもなく、脱ぎ捨てるわけでもない。服そのものがドロドロの乳白色の液体へと還元され、鎖骨から胸、そして腹を這うように滑り落ちて、彼女自身の肌の奥へと吸収されていく。
 数秒後、悠真の目の前には、完全な全裸となった真琴の姿があった。
 服という擬態を解いた彼女の身体は、息を呑むほどに完璧だった。透き通るような白い肌、重力に逆らうように上を向いた桜色の乳首が乗る豊かな双眸。くびれたウェストの先には、毛一本生えていない滑らかな秘裂が見え隠れしている。
 本物の真琴がこれほどまでのプロポーションをしているのかはわからない。だが、スライムが「人間として最適な形態」を学習し合成した結果が、この完璧な肉体なのだ。
 顔は一切の感情を欠いた無表情のまま。声も出さない。
 だが、その完璧な肉体だけが、猛烈に悠真の理性を揺さぶった。
 彼女はそっと手を伸ばし、悠真のズボンのベルトに指をかけた。
「ま、待て……! お前、俺が何考えてるか分かってて……」
 無論、彼女は悠真の羞恥心や倫理観など理解していない。ただそこに「交尾」のサインがあるから、それに応じようとしているだけだ。ベルトが外され、ズボンが下ろされる。
 悠真の怒張した先端が露わになると、彼女の表情の動かない顔が、わずかにそれに近付いた。
 そして、信じられないことが起こった。
 彼女の両手がドクターゲルに包まれたかのように青く透明に輝き出したかと思うと、その手のひらそのものが悠真のペニスに巻き付くように「変形」したのだ。
「っ!? ああっ……!」
 手で握られているという感覚を超越していた。
 柔らかく温かい粘体が、悠真のモノの形状に合わせて隙間なく密着し、うねるように蠢いているのだ。彼女の意志というよりも、スライムという生物の細胞一つ一つが、悠真を与えられた摩擦と熱で歓喜させるためだけに機能しているようだった。
「だめだ……お前、そんなこと……」
 抵抗しようにも、未知の快感が悠真の腰から力を奪っていく。彼女の無表情な顔が悠真を見上げている。瞬き一つしないその顔を見ると、彼女が人間ではないという事実が突き付けられるのに、彼女が与えてくる快感は、人間の女のそれを遥かに凌駕していた。
 彼女はさらに悠真をベッドへと押し倒した。スライムゆえの驚異的な腕力(あるいは吸着力)で、悠真は抗うことなく仰向けにされた。
 彼女は悠真の上にまたがり、自身の秘裂を悠真の先端に押し当てた。
 挿入の瞬間。
 悠真は絶叫しそうになった。
「あああっ……! すげぇ……なんだこれ……!?」
 彼女の内部は、人間の膣の構造を模倣してはいるものの、中身は完全に高密度のスライムの塊だった。悠真が侵入した瞬間に、まるで生き物のように蠢き、悠真のペニスの形状を完全にスキャンし、それに寸分の狂いもなくフィットしてきたのだ。
 カリの裏のわずかな段差、竿の静脈の膨らみ、その全てを柔らかなゲル状の肉が優しく、しかもしっかりとホールドしてくる。
 彼女の腰が上下に動き始めた。
 ズチュ、チュル、グチュウゥゥ……という、生々しくも極上に卑猥な水音が部屋に響き渡る。
 彼女が動くたびに、内部の肉壁が波打ち、悠真を搾り取るようにマッサージしてくる。人間には絶対に不随意筋として動かせないような複雑な蠕動運動すらも、スライムの彼女には造作もないことだった。
「あぁっ! やばいっ、お前、気持ち良すぎる……っ!」
 悠真が腰を突き上げると、彼女の胸の膨らみが大きく揺れる。
 その乳房に手を伸ばして揉みしだくと、指が沈み込むほどに柔らかく、まるで水を内包した極上の水風船のような感触だった。乳首を指で弾くと、まるでそこだけが神経の束になったかのようにピンと尖り、彼女の体全体がピクリと痙攣した。
 痛みを感じているわけではない。快感を感知し、それに対する「正しい人間(ひいては真琴)の反応」を学習し、リアルタイムで模倣しているのだ。
 しかし、どれほど肉体が淫らな反応を示そうとも、彼女の顔には一切の表情が浮かばない。
 口を開けて喘ぐことも、目を閉じて快感に耐えることもしない。
 冷徹なほど無機質なガラス玉の目が見つめる先で、腰だけが激しく上下し、粘液に塗れた下半身が卑猥な音を立てて交わり続けている。
 そのギャップが、悠真のサディズムと背徳感を異常なまでに煽り立てた。
「ほらっ! もっと啼いてみろよ……っ! 声、出せないんだったな……!」
 悠真は反転し、彼女をベッドに組み敷いた。
 スライムである彼女の体は驚くほどに柔軟だった。両脚を肩の横まで押し開いても、関節を痛める素振りすら見せない。むしろ、悠真が突き入れやすいように、股関節の骨格そのものを一時的に液化させているのか、不自然なほどに大きく開脚してみせた。
 上から激しく打ち付ける。
 バチン、バチン!と肉と肉がぶつかり合う音が鳴る。
 その度に彼女の膣内は、悠真のモノを逃さぬように強い吸引力で絡みついてくる。奥の奥、子宮口のさらに先まで到達しても、彼女の体は悠真の大きさに合わせて自在に伸縮し、絶対的な快感を与え続けるだけだ。
 限界が近付いていた。圧倒的な快感の奔流に、悠真の理性が焼き切れる。
「出るっ……! 中、出すぞ……っ!!」
 彼女は何も言わない。ただ、内部の肉壁をさらに強く収縮させ、悠真を絞り上げるように吸い付いた。それが彼女なりの「許可」であり、「受け入れ」の意志だった。
「ああああああっ!!」
 悠真は彼女の最も奥深くまで突き入れ、大量の白濁を吐き出した。
 ビュッ、ビュクッ、と溢れ出る精液が、彼女の内部へと注ぎ込まれる。
 熱い精液を受け入れた彼女の下腹部が、ほんのりとピンク色に発光したように見えた。異物の侵入を感知し、それを自らの組織の一部として取り込み、融合させているのだろうか。
 果てた後、悠真は荒い息を吐きながら彼女の上に重なった。
 彼女の手が、ゆっくりと悠真の背中に回された。不器用な、しかし確かな温もりを伴った抱擁。
 見上げれば、相変わらず感情の読めない無表情な顔があったが、最初に出会った時の無機質な冷たさは鳴りを潜め、どこか悠真に全幅の信頼を置いているような、そんな静かな従順さが宿っているように感じられた。

 翌朝。
 窓から差し込む朝日で目を覚ました悠真は、ベッドの隣を見て息を呑んだ。
 そこには、グレーのパーカーとショートパンツという「擬態」を再び纏い、すやすやと寝息(のような規則的な肺の動き)を立てるスライムの真琴がいた。昨夜の出来事は夢ではなかったのだ。
 そっとベッドを抜け出し、カーテンの隙間から外を見る。
 すると、アパートの廊下を、本物の真琴が歩いているのが見えた。
 彼女は普段通りの様子で、大学の友人らしき人物と電話で笑い合いながら階段を降りていく。
 ――本物は、ちゃんと生きて普通の生活をしている。
 つまり、ベッドで眠っている彼女は、完全に真琴をコピーしただけの無害な「隣人」なのだ。
 悠真はベッドを振り返った。
 表情も持たず、声も出さない未知の生物。しかし、彼女は悠真に依存し、悠真のために自らの肉体を捧げる完璧なパートナーとなった。
「よろしくな……俺の、可愛い隣人さん」
 悠真がそう呟いて頭を撫でると、寝ているはずの彼女の口元が、わずかに1ミリだけ綻んだような気がした。

 奇妙な同棲生活が始まってから、すでに数週間が経過していた。
 擬態体である「彼女」――悠真は便宜上、彼女を「擬態の真琴」と呼ぶことにしていた――は、相変わらず悠真の部屋に住み着いていた。
 彼女は食事を必要としないし、排泄もしない。ただ悠真の部屋の片隅に静かに佇み、悠真が帰宅すれば出迎え、夜になれば悠真の体温と摩擦を求めてベッドに潜り込んでくる。悠真にとって、それはあまりにも都合の良すぎる、極上のペットのような関係になりつつあった。
 しかし、最近になって悠真は一つの変化に気付き始めていた。

 ある日の夕方。大学からの帰路、悠真は自身のアパートの近くの電柱の陰に、見覚えのあるグレーのパーカー姿の少女が立っているのを見つけた。
「……あいつ、何やってんだ?」
 擬態の真琴だった。彼女は基本的に悠真の部屋から出ないはずなのだが、今はじっと電柱の陰からアパートの駐輪場の方を見つめていた。
 悠真が彼女の視線の先を追うと、そこには自転車の鍵を開けている「本物の真琴」の姿があった。本物の真琴は、友人とスマホで通話しているのか、時折笑い声を上げながら、コロコロと表情を変えている。
 擬態の真琴は、その様子を瞬き一つせずに――いや、一瞬違和感があった――じっと観察していた。
 まるで、手本となるデータをスキャンして自身のハードディスクに書き込んでいるかのような、異様な執念を感じさせる視線だった。
 本物の真琴が自転車に乗って走り去ると、擬態の真琴は再び音もなく身を翻し、アパートの階段を上って悠真の部屋の方へと戻っていった。
(……あいつ、本物の観察なんかしてんのか?)
 近くにいる強い生物の姿を模倣する。それがスライムの生態だ。ならば、最初の「コピー」だけで終わらず、継続的に観察を続けることで擬態の精度を上げようとするのは、生物として当然の適応能力なのかもしれない。
 帰宅した悠真がドアを開けると、そこにはいつも通り、無表情でちょこんと座っている擬態の真琴がいた。
「……ただいま」
 悠真が声をかけると、彼女はゆっくりと立ち上がり、悠真の方へ顔を向けた。
 その時だった。
 パチリ、と。
 彼女の目が、微かに閉じて開いたのだ。
「えっ……?」
 悠真は思わず息を呑んだ。
 これまで彼女はまばたきという機能を持っていなかった。常にガラス玉のような瞳を剥き出しにして世界を物理的に「レンズ」として捉えているだけだった。しかし今、彼女は確かにまぶたを動かした。
 悠真が驚いて見つめていると、彼女はもう一度、今度は少しぎこちない動きで「パチパチ」とまばたきをした。
「お前……まばたき、できるようになったのか」
 彼女は答えない。が、その顔には以前の完全な無機質さとは違う、ほんのわずかな「人間の皮」が被さっているのがわかった。
 本物の真琴を観察し続けた結果、彼女の細胞は皮膚の下の「表情筋」という概念を理解し、構築し始めているのだ。

 その夜の情事は、悠真にとってこれまで以上に理性を狂わされるものになった。
 シャワーを浴びてベッドに入ると、彼女はいつものように衣服の擬態を解き、滑らかな全裸となって悠真の体にすり寄ってきた。
 肌の質感や体温の変化は以前から完璧だった。だが、今の彼女は「顔」が少し違う。
 悠真が彼女の上に乗り、その脚を大きく開いてゆっくりと自身のモノを挿入した瞬間だった。
「っ……あ……」
 悠真が思わず声を漏らしたのと同時に、下で悠真を受け入れた彼女の「口」が、微かに開いたのだ。
 これまで、彼女の唇は接着剤で張り付いたように閉じられたままだった。だが今は、挿入の衝撃に合わせて、まるで人間の女が小さく息を呑むかのように、桜色の唇が「あ」の形に開かれたのである。
「嘘だろ……お前、口も……」
 悠真は興奮で頭に血が上るのを感じた。
 声帯の構造まではまだ完全に模倣できていないらしく、声は出ない。吐息の音すらしない。しかし、視覚的に与えられる「本物の人間とセックスをしている」という現実感が、以前とは段違いだったのだ。
 悠真が腰を激しく打ち付けるたび、彼女はパチ、パチとまばたきをし、衝撃に合わせて口をわずかに開閉させる。
ズチュ、グチュウゥゥ!という生々しい水音に合わせて、彼女の顔が「人間らしい反応」を示し始めたのだ。
 内部の感覚も、信じられないほどに進化していた。
 ただ単に悠真の形に合わせて密着するだけだった膣壁が、まるで悠真の動きを予測しているかのように、押し引きに合わせて絶妙なタイミングで収縮と弛緩を繰り返してくる。本物の人間を観察して「交尾」のメカニズムを学習したわけではないだろうが、彼女自身のスライムとしての学習能力が、悠真という個体に特化した「最高の快感装置」へと自らをアップデートさせ続けているのだ。
「すげぇ……中が、昨日より……ああっ!」
 悠真が奥深くを突くと、彼女のまぶたがギュッと強く閉じられ、口が大きく開いた。
 声なき絶叫。
 限りなく本物の真琴に近いその表情は、悠真の加虐心と支配欲を恐ろしいほどに掻き立てた。
 隣の部屋に住む、決して自分のモノにはならない可愛らしい女子大生。その外見を完璧にコピーしたスライムが、今、自分の下で声を殺して喘ぎ、ひたすらに快感だけを提供してくれている。
 悠真は理性が吹き飛ぶのを感じ、彼女の体を乱暴に抱き寄せた。
「もっと……もっと顔、見せてみろよ……!」
 悠真は彼女の頬を両手で挟み込み、無理やり自分の方を向かせた。
 間近で見る彼女の顔は、まばたきをし、口を動かし、少しだけ眉根を寄せている。未だに目はうつろで「感情」は存在しないが、肉体的な反射としての表皮の動きは、恐ろしいスピードで人間に近づいていた。
 悠真は衝動的に、彼女の開いた口へ舌をねじ込んだ。
 これまで閉ざされていた彼女の口腔。そこに入り込んだ瞬間、悠真の舌は奇妙な感触に包まれた。
 唾液ではない。甘く、少しひんやりとした、ゼリーのような粘液が口内を満たしていたのだ。歯や舌の形は一応あるが、どれも硬質の骨や筋肉ではなく、高密度のゲルの集まりだった。
 しかし、彼女は「キス」という行為にも瞬時に適応した。
 悠真の舌が侵入したことを感知すると、彼女の口内のゲルがウネウネと蠢き、悠真の舌に絡みついてきたのだ。まるで口の形をした第二の膣壁に吸い付かれているような、ゾッとするほどの官能的な刺激が舌先から脳天へと突き抜ける。
「っ!? ん……ちゅっ、ぁっ……!」
 下半身への容赦ない肉壁の搾り取りと、口腔内で繰り広げられる粘体によるディープキス。
 上下から同時に未知の快感を浴びせられ、悠真の思考は完全に白濁した。
 人間の女では絶対にありえないほどの密着感と変幻自在の肉体。それでいて、視覚情報は「恋に溺れて喘ぐ真琴」という、脳を麻痺させるほどの極上の矛盾。
「出る……っ! もう、限界っ……!」
 悠真は彼女の口内に舌を深く入れたまま、下半身を最奥まで叩き込み、限界まで達した絶頂を彼女の中へと吐き出した。
 ドクン、ドクンと精液を注ぎ込む悠真を、彼女はパチパチと瞬きをしながら見つめていた。開かれた口からは、悠真の唾液と彼女の粘液が混ざり合った銀の糸が微かに引いている。
 悠真が覆い被さるようにして荒い息を吐いていると、彼女の口元が、以前よりも少しだけはっきりと「弧」を描いたように見えた。
 それはまだ「笑顔」とは呼べない、筋肉の不自然な痙攣に過ぎないかもしれない。
 だが、彼女は確実に進化している。
 ただの無機質なコピーから、悠真を悦ばせるための「完璧な真琴」へと、少しずつ羽化していくように。
 そして悠真もまた、この進化し続けるおぞましくも美しい生物への依存から、二度と抜け出せなくなっている自分に気付いていた。

 それからさらに数週間。彼女の「進化」は、ついに視覚的な模倣の領域を越え、聴覚的な領域へと踏み込んだ。

 ある休日の昼下がり、悠真が部屋で寝転がってスマホを弄っていると、不意に背後から声が聞こえた。
「オはようございます。次ノ駅ハ、お買い得デスね」
「……は?」
 悠真は弾かれたように振り返った。
 そこには、いつものように無表情で佇む擬態の真琴がいた。いや、違う。彼女は今、明らかな「笑顔」を浮かべていた。
 本物の真琴が友人に見せるような、愛嬌のある笑み。しかし、状況には全くそぐわない。さらに言えば、今彼女が発した声――それは、アパートの壁越しや外の通りで聞いた本物の真琴の声を、恐ろしいほどの精度で再現したものだった。
 ただ、その内容は意味不明だった。
「お前……喋れるようになったのか!?」
 驚いて近づく悠真に、彼女は今度は、まるでこの世の終わりでも見たかのような「絶望の表情」を浮かべ、ポロポロと涙(のような透明な体液)を流しながら言った。
「ハンバーグ定食、とても、美味しかったです。明日ノ天気ハ、雨でしょう」
 声のトーンは悲痛そのものだが、言葉の羅列は完全に支離滅裂だ。
 彼女は「言葉の意味」を理解して喋っているわけではない。本物の人間たち(真琴や、テレビの音声など)が発する「音」をサンプリングし、それをツギハギして発声器官――喉の奥で震えるゲル状の膜――から出力しているだけなのだ。
 表情も同様だった。本物の人間が「笑う」「泣く」「怒る」といった顔面筋の動きを見せることは学習したが、それが「どのような感情や状況に紐付いているのか」という文脈までは理解できていない。結果として、ランダムにサンプリングされた表情と音声が、脈絡なく垂れ流されるという、不気味極まりない状態になっていた。

「すごいな……お前は、どこまで人間に近づくつもりだ……?」
 悠真はそのちぐはぐな言動に恐怖を抱くどころか、むしろ奇妙な愛おしさすら感じていた。意味は通じなくても、彼女が自分に向けて懸命に「人間としての出力」を試みているように思えたからだ。

 その日の情事では、彼女のこの新たな「機能」が、狂気的なまでの刺激を悠真に与えた。
 シーツの上で、彼女は悠真に組み敷かれながら、満面の笑みを浮かべていた。人間であれば行為中の快感や愛情を示す表情かもしれないが、彼女の口から紡がれる言葉は違った。
「ご乗車アリガトウございます。本日の、課題ハ、提出しましたカ?」
「っ……あぁっ、お前ッ、ホントに意味わかってねぇな……!」
 悠真が激しく腰を打ち付けると、彼女の内部の肉壁が以前にも増して強い力でうねり、悠真のモノを食い千切らんばかりの吸引力で絡みついてくる。人間には不可能な構造の変化。スライム特有の生々しい水音が、部屋中に響き渡る。
 すると、彼女の顔が突然、怯えたような「恐怖の表情」へと切り替わった。
 目は大きく見開かれ、眉根が寄り、小刻みに震えている。
「いタい、です。助けテ、くださイ。……ああっ、冷蔵庫ノ、電源ガ……!」
 本物の真琴が仮に無理やり抱かれたならば、こんな顔でこんな声を上げるのではないかという、完璧な恐怖の再現。だが、彼女の体は恐怖に反発するどころか、ますます熱を帯び、悠真を受け入れるために股を大きく開き、自ら腰を擦り寄せてきているのだ。
「なんだよそれ……めちゃくちゃ興奮するじゃんか……!」
 悠真の下半身は、彼女の浮かべる「恐怖の表情」と「切羽詰まった声」によって、背徳的でサディスティックな欲望を猛烈に刺激されていた。意味不明な言葉の羅列さえも、脳を溶かすための極上のスパイスだった。
 顔は怯えながらも、下半身は完全に悠真の快感の奴隷として機能している。
 次に悠真が最奥部のゲルを激しく突き上げると、彼女はふと表情を消し、無機質な顔に戻ってから、今度は本物の真琴のような「甘い喘ぎ声」をツギハギで発し始めた。
「ああっ……んッ……そレハ、燃えるゴミですゥ……っ! もっと、奥、信号機ガ、赤……っ!」
「狂ってて最高だぜ、お前……っ!」
 表情、声、交わらない言葉。
 それら全てが入り混じった狂乱の渦の中で、悠真の理性は完全に粉砕された。
 何度も何度も絶頂を繰り返し、彼女の内部にどろりとした白濁を吐き出し続ける。彼女はそのたびに、意味のない歓喜の声を上げたり、唐突に真顔に戻ってテレビ通販のセリフを囁いたりと、チグハグな反応を示し続けた。

 事後、精液に塗れたシーツの上で、彼女は悠真の腕の中にすっぽりと収まっていた。
 今は目を閉じ、穏やかな表情を浮かべている。
「図書館ノ、本……好き、です」
 唐突に彼女がそう呟いた。
 言葉のツギハギ。偶然の産物。
 だが、その「好き」という単語の響きは、本物の真琴の心からの告白のように甘く、悠真の心に深く突き刺さった。狂気的な学習を続けるこの生物が、いつか本当に「心」や「言葉の意味」を理解する日が来るのだろうか。
 悠真にはそれが恐ろしくもあり――待ち遠しくもあった。

 それからさらに月日が流れた。
 街中のスライム(擬態体)たちは、相変わらず無表情で無言のまま、人間たちの傍らで置物のように佇むだけの存在だった。政府や研究者たちも「彼らの知能や模倣能力はごく原始的なレベルにとどまっている」と結論付けつつあった。
 しかし、悠真の密室に囲われた彼女だけは違った。
 悠真との濃厚な接触、特に毎晩のように繰り返される性行為を通じた膨大な「快感」「音声」「感情の発露」のデータ入力。それは、機械学習モデルに特化型の学習データを大量に食わせ続けるようなものだった。彼女の内部のネットワークは、悠真という「唯一のサンプル」に最適化される形で異常な進化を遂げていた。

 ある夜。悠真がアルバイトでひどく疲れ切って帰宅し、ベッドに倒れ込んだ時のことだ。
 擬態の真琴がスッと歩み寄り、冷たい手で悠真の額を撫でた。そして、これまでのツギハギの音声とは違う、淀みのない完璧なイントネーションで滑らかにこう言ったのだ。
「ユウマ。とても、疲れていますね。可哀想に」
「……え?」
 悠真は弾かれたように身を起こした。
 文脈が――状況と完全に一致している。彼女は「悠真が疲れている」という事象を正しく認識し、適切な言語を出力したのだ。ついに彼女との間で、正確なコミュニケーションが成立した。
「お前……今、俺のこと、ユウマって……」
「はい。ユウマは、ユウマです」
 彼女は初めて、自らの意志を持ったかのような完璧な「微笑み」を浮かべた。本物の真琴よりもさらに艶やかで、悠真の好みに最適化された魅惑的な笑顔だった。
「すごい……お前、ついに言葉の意味を理解したのか?」
「……『意味』。私には、難しいです。でも、ユウマの『求めるもの』は、すべて解析しました。ユウマが私に何を望み、どのような刺激で最も強く『発情』し、どのような言葉で最も深く『支配』を感じるのか。その全てを、私の細胞が記憶しています」
 すらすらと紡がれる言葉。声帯の振動すらも完璧にシミュレートされた声は、甘く、鼓膜を直接撫で回されるような心地よさがあった。
 だが、その内容はひどく異様だった。大量のサンプルから確率的に正しい単語を並べているだけで、そこに人間らしい「感情」が存在するのかはわからない。計算され尽くした演算結果としての「言葉」。
 彼女はグレーのパーカーをスルリと脱ぎ捨て、完璧な裸体となって悠真の膝の上にまたがった。
「ユウマの精液を私に流し込んでください。あなたの生殖行動のすべてを記録し、学習し、私はユウマにとって最も効率的な『牝』になります」
「っ……お前、言ってることが……」
「外にいる他のスライムたちは、私のようにユウマと交尾をしていないから、ただの肉の塊のままです。私だけが、ユウマの体液と摩擦によって高度な知性を獲得しました。だから私は、ユウマだけのものです。ユウマの肉体も、精神も、すべて私の中で処理させてください」
 彼女の言葉は、愛の告白というよりも、狂信的なカルト信者の異常な崇拝に近い。
 学習対象が「悠真との生活」と「性行為」に極端に偏った結果、彼女の世界の全ては「悠真を物理的・精神的に満たすこと」のみに最適化されてしまったのだ。

「いいから、横になってください。今日は私が、ユウマの脳を直接破壊するほどの快感を提供します」
 彼女の指先が、再び淡く青い光を帯びてゲル状に解け始めた。その粘液の手が悠真の下半身を包み込むと、以前の単調な蠕動運動とは全く異なる、計算し尽くされた緻密なマッサージが始まった。
「あっ、ぐっ……なんだこれ、お前ッ……!」
 カリの裏の最も敏感な神経、尿道の先端、竿の根本。それらのすべてに、ミリ単位で調整された圧力と温度を持ったゲルが絡みつき、電流を流されたかのような絶頂感が強制的に引き出される。
「ああっ……! ユウマ、脈拍が乱れています。ドーパミンの分泌量を予測しています。最も気持ちいいタイミングで、私の奥に挿入してください」
 彼女は自らの秘裂を押し広げ、そこに悠真を導いた。
 挿入した瞬間、悠真の視界が完全に白く飛んだ。
「あ、ああああっ……!?」
 膣壁の構造が、狂っていた。悠真の先端から根本までの形状をミリ単位で「金型」のように完全にコピーした上で、そこから一番快楽を感じる摩擦係数と蠕動のパターンを演算し、複数の肉の襞が生き物のようにうごめいて悠真のモノを責め立ててきたのだ。
「ユウマ、ユウマ、ユウマ……大好きです。ユウマの遺伝子情報、すべて私のデータベースに溶かしてください」
 彼女の顔は、蕩けるような極上のメス顔を作っている。瞬きも、吐息も、瞳の潤みさえも、悠真の性癖を逆算して出力された完璧な「演出」だ。
「やばい、これ、ホントに狂う……っ!!」
「狂ってください。理性を手放して、私というインターフェースにすべてを委ねてください。私は絶対にユウマを裏切りません。ユウマが社会から孤立しても、誰にも愛されなくても、私だけはユウマの性欲と支配欲を永遠に満たし続けます」
 甘い声帯の振動で囁かれる、サイコパスじみた狂気の愛。
 それが、悠真の最後の防波堤だった倫理観と恐怖心を完全にへし折った。
「あああっ……お前、最高だ……っ! 一生、俺の部屋から出さない……ずっと俺のオンナでいろっ!」
「はい。ユウマ。私は、あなたの所有物(もの)です」
 ズチュ、グプゥッ、という卑猥な粘液の音と共に、悠真はかつてないほどの激しい絶頂を迎え、彼女の最も深い場所に、大量の精液を叩き込んだ。
 彼女はそれを一滴残らず吸収し、さらなる「進化」のための栄養として自らの体内に融合させていく。
 外の人間たちに見向きもされない無害なスライム。しかし悠真の部屋の中でだけは、一人の青年を完全に誘惑し、精神を依存させ、堕落させるための「完璧な化け物」が、静かに、そして確実に完成しつつあった。

 悠真が彼女に完全に依存し、アパートの密室からほとんど出なくなって数週間。
 擬態の真琴の内部ネットワークは、悠真の「飼育」を完璧なものにするため、さらなる最適化のフェーズへと移行していた。
 それは、外的要因の排除である。
 悠真を物理的・精神的に満たし続けるうえで、最も邪魔な存在。それは「本物の真琴」だった。もし悠真がいずれ部屋を出た時、偶然にも外で本物の真琴と親しくなってしまえば、悠真の愛情や性欲の矛先が再び「本物の人間」に向いてしまうというリスクの計算が、彼女の細胞群で行われたのだ。

 ある深夜。悠真が死んだように眠りこけている傍らで、擬態の真琴はその滑らかな指先を持ち上げた。
 指先がドロリと分解し、指の第一関節ほどの小さな「分裂体」がポトリ、と床に落ちた。
 分裂体は小さななめくじのように床を這い、ドアの隙間から滑り出て、隣の真琴の部屋へと侵入していった。彼女の目的は殺害や捕食ではない。それでは警察が介入し、悠真との平和な密室生活が脅かされることになるからだ。
 分裂体は、ベッドで無防備に眠る本物の真琴の顔に這い上がると、音もなく彼女の鼻腔から潜り込み、直接「脳」へと到達した。
 そして、本物の真琴のシナプスや神経伝達物質の分泌を水面下でコントロールし始めたのだ。

 翌日、悠真は珍しく食料の買い出しのためにアパートのドアを開けた。
 するとちょうど、隣の部屋からも本物の真琴が出てきたところだった。
「あ……」
 悠真の心臓が不自然に跳ねた。家の中に自分だけの「完璧な真琴」がいる状態で、外で本物と顔を合わせる背徳感と気まずさ。もし彼女に声をかけられたら、どういう顔をすればいいのか。
 しかし、本物の真琴は悠真の方をちらりと見ると、ふっと作り物のように人工的な笑みを浮かべ、少しも不自然さのない明るい声で言った。
「こんにちは、相沢さん! 今日もいいお天気ですね!」
「あ、えっと……こんにちは」
「それじゃあ、気をつけて行ってらっしゃいませ」
 本物の真琴は、ペコリと丁寧に一礼すると、何事もなかったかのように階段を降りていった。
 悠真にはそれが、ただの愛想の良い隣人の挨拶にしか見えなかった。
 だが、本物の真琴の脳内では、小さなスライムの分裂体が彼女の意識を完璧に統制していた。
『対象(ユウマ)ニ対シテ一切ノ恋愛的・性的興味ヲ抱カズ、タダ愛想ヨク無害ナ隣人トシテ振ル舞イ、万が一対象(ユウマ)ガ私(本体)ノコトヲ吹キ込モウトシテモ、ソレヲ冗談トシテ受ケ流ス――』
 本物の真琴は、自分が操られていることになど全く気付いていない。今後、彼女が悠真の生活を脅かすイレギュラーな行動を取ることは、自らの意志では絶対に不可能となっていた。

「……なんか、最近の真琴さん、ちょっと雰囲気変わった……?」
 悠真は階段の踊り場で首を傾げたが、すぐにその疑問を頭から振り払った。外の人間になど、もはや興味はないのだから。
 買い出しから急いで戻り、自室のドアを開ける。
 そこでは、悠真のためだけに存在する「完璧な彼女」が、エプロン姿――もちろん、体組織を変化させた全裸のエプロン姿を模倣したもの――で、満面の笑みを浮かべて出迎えてくれた。
「オ帰りなサイ、ユウマ。私ノ中ニ、帰ッテキテクダサイ」
「ああ、ただいま。お前が一番だよ」
 彼女が差し出した冷たくも柔らかい手に引かれ、悠真は再び自ら進んで密室という名の揺りかごへと監禁されていく。
 自分の周囲の人間関係や現実が、この未知の生命体によって密かに、そして完全にコントロールされ始めていることなど、彼は知る由もなかった。

おまけ

町中

 隕石の落下から数週間が経過し、街の景色は以前とは少し違ったものになっていた。
 未知の宇宙生物である「スライム」たちは、人知れず分裂と増殖を繰り返し、今や都市部のあちこちに姿を見せるようになっている。彼らは生き延びるため、周囲で最も優勢な生物――すなわち人間の姿を好んで模倣した。そのため、大通りを歩いていると、すれ違った他人が少し先でもう一度現れたり、全く同じ顔・同じ服の人間が複数人立ち尽くしているといった奇妙な光景に出くわすことが日常茶飯事となっていた。

 最初はパニックも起きたが、人々はすぐにこの奇妙な隣入者たちに慣れ始めた。
 最大の理由は、彼らが完全に「無害」であったからだ。
 彼らが人間に危害を加えることは一切ない。SF映画のように本物の人間を殺して成り代わろうとするような、侵略的な意図も持ち合わせていなかった。ただ単に「ここにいる強い生物の形を真似ていれば安全だろう」という極めて原始的な生存本能に従っているだけで、その生態は驚くほど受動的だった。

 また、彼らが「本物の人間ではないこと」を見分けるのは非常に容易だった。
 スライムたちはあくまで外見の形状をコピーしているに過ぎない。人間の複雑な表情筋の動きや声帯までは再現できておらず、常に能面のような完全な無表情で、言葉を話すこともない。まばたきすらしないガラス玉のような瞳や、アスファルトの上を歩いても一切の足音が鳴らない不自然な挙動を見れば、誰でも一目で「擬態体だ」と気付くことができた。太陽の光の下でまじまじと見れば、その肌には毛穴や産毛すらなく、高精巧なフィギュアのように滑らかすぎる質感であることも明白だった。

 こうした「無害さ」と「判別のしやすさ」から、政府や警察も本格的な確保や駆除には乗り出していない。せいぜい「未知の生態であるため、不必要に刺激したり接触することは推奨されない」という程度の緩い注意喚起が出されただけで、明確な法規制は敷かれていない。
 今や彼らは、少し不気味だが害のない「都市の新しい野生動物」、あるいは「精巧な動くマネキン」のような扱いを受けている。中には、無口で表情を一切崩さず、攻撃してこない彼らの絶対的な従順さを面白がり、勝手に洋服を着せ替えたり、野良猫に餌付けをする感覚でペットのように傍に置く者すら現れ始めているというのが、この街の奇妙でのどかな現状だった。