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隣に住む無知な少女はクローンらしい

8,981 文字 約 18 分

あらすじ

突如家に送られてきたその少女は、自分をクローンだと名乗った。
どうにも、国の研究所の実験か何かで、AIを組み込んだクローンに普通の生活をさせて、一般人の暮らしを学ぶ目的があるらしい。謝礼も出るようだ。
普通に喋ることはできるようだが、知識や一般常識がない。


登場人物

佐々木 拓海(ささき たくみ)
27歳。都内の一人暮らし。フリーランスのwebデザイナーで、自宅を仕事場にしている。仕事はそれなりにできるが、基本的にめんどくさがりで、余計なことには首を突っ込まない。国の研究プロジェクトで謝礼が発生すると聞かされたとき、迷うより先に判子を押していた。

シロ
国立生命科学研究機構が開発したAI搭載クローン。見た目は18歳前後の少女で、肩甲骨あたりまで伸びた白みがかった銀髪に、淡い水色の瞳を持つ。肌は滑らかで血色が良く、一見するとどこにでもいる普通の若い女性に見える。身長は162センチほどで、スタイルは良い。研究所から支給された白いTシャツと薄いグレーのスウェットパンツを着て現れた。言語能力は十分にあり、文章も読める。ただし、一般常識や社会的文脈、感情的なニュアンスをほとんど持ち合わせていない。感じたことをそのまま口にするため、会話がかみ合わないことも多い。

本文

 チャイムが鳴ったのは昼の十二時を少し過ぎた頃で、佐々木拓海はちょうどコーヒーを入れ直したところだった。
 宅配便かと思いながらドアを開けると、そこに立っていたのは若い女だった。白みがかった銀髪を肩甲骨あたりまで伸ばし、淡い水色の目でまっすぐこちらを見ている。白いTシャツに薄いグレーのスウェットパンツという、どこで買ったのかよく分からない無個性な格好をしていた。小さなボストンバッグを足元に置いていて、手には封筒を持っている。
「佐々木拓海さんですか」
「そうだけど」
「国立生命科学研究機構のクローン適応プログラム、A-7047号です。今日からここに配属されました」
 拓海は三秒ほど黙った。
「……ん?」
「書類です」
 差し出された封筒を受け取ると、確かに見覚えのある書類が入っていた。先月、役所から回ってきた研究プログラムへの協力依頼。内容は「AIを搭載したクローン個体に一般家庭での生活を経験させる実証実験への参加」で、謝礼として月十二万円が振り込まれる、と書いてあった。拓海は特に深く考えずにサインして送り返した覚えがある。
「……ああ、あれか」
「はい。本日より六ヶ月間、一般家庭環境でのデータ収集を行います」
「六ヶ月」
「そうです。ご不便があれば担当者に連絡してください。連絡先はその書類にあります」
 彼女の話し方は妙に淡白だった。声のトーンが一定で、感情の起伏がほとんど感じられない。目は合っているのだが、何かを読み取ろうとしている感じがない。
「上がって良いですか」
「……どうぞ」
 ボストンバッグを持ち上げた少女は、まっすぐ室内に入ってきた。

 拓海の家は2LDKで、一部屋を仕事部屋にしている。もう一部屋は客間というか物置で、ベッドと小さなクローゼットだけ置いてある。少女はその部屋に案内すると、バッグを床に置いてぐるりと室内を見回した。
「ここが私の部屋ですか」
「一応そのつもりで空けておいたけど」
「分かりました」
 彼女は特に感想を言わずに、バッグの中からタオルを一枚取り出して畳んだ。それだけして、立ったままでいる。
「……お茶とか、いる?」
「お茶とは何ですか」
 拓海は少し間を置いた。
「飲み物だよ。緑茶とか」
「飲み物は必要です。喉が乾いています」
「そ、そうか」
 台所に戻って麦茶をコップに注いで持っていくと、少女はそれを受け取って一口飲んだ。
「これは何ですか」
「麦茶」
「味があります」
「そりゃあるだろ」
「水と同じ用途ですか」
「まあ……そうだな」
 少女はもう一口飲んで、コップを両手で持ったままでいた。

 夕方になって、拓海はとりあえず名前を聞いた。
「シロです」
「苗字は」
「ありません。識別番号はA-7047ですが、日常生活での使用は想定されていないようです」
「じゃあシロで」
「はい」
 シロは特に嬉しそうでも嫌そうでもなかった。拓海がソファに座ってノートパソコンを開くと、シロはその横に来て、同じようにソファに座ってこちらを見ていた。
「何か用?」
「何もありません」
「じゃあなんで見てんの」
「見ています」
 答えになっていない。拓海は小さくため息をついて、何も言わずに仕事を再開した。シロはしばらくの間、黙ってこちらを観察し続けていた。

 夕食は拓海が適当にパスタを茹でて出した。シロはそれを見て、フォークを手に取り、じっと麺を見た。
「巻きますか」
「どうぞ」
 彼女は器用にフォークで麺を巻いて、口に入れた。数回噛んで、飲み込む。
「これは何ですか」
「パスタ。麺料理」
「美味しいと感じています」
「そうか」
「これは毎日出てきますか」
「毎日は変わるよ」
「変わる」
「日によって違うものを食べるの」
「なぜですか」
 拓海は答えに詰まった。
「……飽きるから?」
「飽きる、とは」
「同じもの毎日食ってると嫌になるってこと」
 シロはしばらく考える顔をした。
「私には分からないかもしれません」
「まあ、そのうち分かるかも」
 それ以上会話は続かなかった。シロはパスタを最後まで丁寧に食べ、フォークを置いた。

 初日の夜、拓海は風呂に入ろうと廊下を歩いていたら、ちょうどシロが脱衣所から出てくるところに鉢合わせた。彼女はタオルを一枚手に持っているだけで、それ以外は何も身につけていなかった。
「わっ」
「どうしましたか」
 シロは特に慌てた様子もなく、拓海を見ている。
「いや、そのっ……服、着てないじゃないか」
「これから着ます」
「廊下で大丈夫? 誰かが来たりしたら」
「誰かとは」
「いや、来ないけど……カーテン閉めといてよ」
 シロは拓海の視線が自分の身体に向いていることに気づいているのかいないのか、首を少し傾けて言った。
「あなたは私の身体を見て困っていますか」
「困ってるっていうか、まあ……」
「見ていても問題ありません。私は気になりません」
「俺が気になるんだよ」
 シロは少し考えてから、「分かりました」と言って部屋に戻った。拓海は脱衣所に入って、ドアを閉めてから深呼吸した。
 さっきの数秒で、彼女の身体は十分すぎるほど視界に入っていた。整った顔立ち、なだらかな鎖骨、均整の取れた胸と腰のライン。人工的に作られた身体だとは思えないほど、自然で、滑らかだった。
「まずいな」
 誰に言うでもなく、拓海は一人で呟いた。

 二日目の朝、シロはリビングのテーブルに座って、拓海の仕事用のノートパソコンを開いていた。
「それ俺のだけど」
「触ってはいけませんでしたか」
「いや、まあ……何してたの」
「画面に文字がたくさんあったので読んでいました」
 拓海が覗くと、デザインソフトのファイルが開いていた。レイヤー構成がぐちゃぐちゃになっていて、少し青ざめた。
「触る前に聞いてくれると助かるな」
「分かりました。次から聞きます」
 シロは素直に答えて、パソコンをそっと拓海の方に向けた。
「これはあなたの仕事ですか」
「そう、デザインの仕事」
「どういうことをしますか」
「見た目を作る。画像とかウェブサイトとか」
「あなたが作ったものは、誰かが使いますか」
「そうなるように作ってる」
 シロはその答えをしばらく噛み締めるように黙っていた。
「自分が作ったものを誰かが使うのは、気持ちが良いですか」
「まあ、悪くはない」
「それは嬉しいということですか」
「……そうかもな」
 シロは「そうですか」とだけ言って、テーブルに肘をついた。窓の外を見ている。
「あなたは私に、一般的な生活を教えてくれますか」
「まあ、そういう契約だし」
「どこから教えますか」
 拓海は頭を掻いた。
「……とりあえず、勝手にパソコン開かないところからかな」
 シロは真剣な顔で頷いた。

 三日目から、拓海はちょっとした説明をするようになった。といっても、何かを教えようと意気込んでいるわけではなく、シロが「これは何ですか」と聞くたびに答えるという形だった。
「これは宅配便です。荷物を届けるサービス」
「なぜ自分で取りに行かないのですか」
「遠いから」
「遠い場合は、他人に届けてもらうのですか」
「そのためにお金を払う」
「お金で、他人の時間と体を使えるのですか」
「……まあ、大雑把に言えばそうかな」
 シロは「複雑です」と言った。
「どのくらいのお金があれば、どのくらいの他人を使えますか」
「うーん、それは一概には言えないな」
「では、あなたは私にお金を払いますか」
「え、俺じゃなくて研究所が払ってるけど」
「そうですか。では私はあなたの他人ではなく、研究所の他人ですか」
 拓海はしばらく考えた。
「……まあ、そういうことになるのかな」
 シロは少し首を傾けた。なんとなく気に入らなそうな顔に見えたが、気のせいかもしれない。

 同居して五日が経った頃、拓海はシロが夜中にリビングにいることに気づいた。深夜二時頃、喉が乾いて起き出してみると、シロがソファに座って天井を見ていた。
「眠れない?」
「眠る必要がいつもあるわけではないようです。身体が休まれば十分だと分かりました」
「そうなんだ」
「あなたは眠れませんでしたか」
「喉が乾いただけ」
 拓海は水を飲んで、そのままシロの隣に座った。特に理由はなかったが、なんとなくそうした。
「暗いのは平気?」
「平気です。私は暗さを怖いと感じません」
「普通の人は少し怖いこともあるけどな」
「あなたは怖いですか」
「慣れたから大丈夫」
「慣れで怖くなくなるのですか」
「なることもある」
 シロは「そうですか」と言って、また天井を見た。拓海も天井を見た。二人でしばらくそうしていた。
「私はこれから人間に近くなりますか」
「どうだろ。分からん」
「なりたいとは思いません」
「え、そうなの」
「今の私は、自分が何かに近くなろうとしているわけではないので」
「じゃあ何がしたいの」
「分かりません。でも、今は不便ではありません」
 拓海は少し意外に思った。
「居心地悪いかと思った」
「なぜですか」
「何も分からないまま見知らぬ家に送られてきて、普通は不安じゃないかと」
「不安とはどういう感覚ですか」
「これから何が起きるか分からなくて、嫌な感じがすること」
「私は、これから何が起きるか分からないとは感じていません。ただ、起きることを観察しているだけです」
 拓海はその言い方がなんとなく面白いと思った。
「それすごいな」
「そうですか」
「俺はしょっちゅう不安になるよ」
「何が不安ですか」
「仕事が上手くいかないとか。老後とか。まあ色々」
「老後とは」
「年を取ってからのこと」
「あなたはまだ若いですよね」
「二十七」
「二十七は若いです。なぜ今から不安なのですか」
「そりゃあ……先のことを考えるから」
 シロは少し黙ってから言った。
「私は先のことを考えても不安にはなりません。先のことは先のことだからです」
 拓海は笑った。声に出て笑ったのは久しぶりな気がした。
「それ正論なんだよな」
「正論なら実行できますか」
「頭では分かっても、感情がついてこないことってあるんだよ」
「感情と頭は別物ですか」
「割とそう」
 シロは「複雑です」と言った。今日で三回目のその言葉だった。

 七日目の夜、拓海が仕事を終えてソファで本を読んでいると、シロがすっと近づいてきて隣に座った。距離が近い。
「近くない?」
「近いですか」
「うん」
「離れますか」
「……まあいいよ」
 シロはそのまま拓海の手元を見た。
「それは何を読んでいますか」
「小説」
「小説とは」
「フィクション。作り話」
「作り話を読んで何が得られますか」
「別に得ようとして読んでるわけじゃないな。面白いから読む」
「面白い、とは気持ちが良いことですか」
「似てるけど、ちょっと違う。続きが知りたくなる感じ」
「私もその本を読めますか」
「いいよ」
 拓海が本を渡すと、シロはそれを受け取って最初のページから読み始めた。拓海は新しい本を取りに立って、また戻ってきた。二人で並んで本を読んだ。
 四十分ほどして、シロが言った。
「この話の主人公は、なぜ嘘をつくのですか」
「どのページ?」
「三十二ページです」
 覗いてみると、確かに主人公が嘘をつくシーンだった。
「都合が悪いことを隠すために嘘をつくのは普通にあること」
「都合が悪い、とは」
「自分にとって不利なこと」
「嘘をついた方が不利でなくなるのですか」
「一時的には。でも後でバレると余計都合が悪くなる」
「では嘘は非効率です」
「そうなんだけど、感情的になってるとそこまで考えられなかったりする」
「また感情の話です」
「俺たちの生活、ほぼそれで成り立ってるから」
 シロは「そうですか」と言って、また本に目を戻した。

 二週間が経った頃から、拓海はシロにいくつかの家事を教え始めた。洗い物、洗濯の仕方、ゴミの分別。シロは指示通りに動くことは得意で、一度教えると間違えない。ただ、なぜそうするのかを理解しようとするので、説明が長くなることが多い。
「なぜ燃えるゴミと燃えないゴミを分けるのですか」
「処理する方法が違うから」
「処理する人が分ければ良くないですか」
「量が多すぎるから、出す側が分けておく決まりになってる」
「誰が決めましたか」
「行政。役所とかそういうところ」
「あなたが決めたわけではないのに、あなたはそれに従うのですか」
「そうしないと回収してもらえないから」
「回収してもらえないとどうなりますか」
「ゴミが溜まる」
「溜まったものはどうしますか」
「……だから分別するんだよ」
 シロは「分かりました」と言って、プラスチックのゴミを正しい袋に入れた。
 拓海はため息をついたが、嫌な気持ちはしなかった。

 三週間目の終わり頃、拓海が帰宅すると(この日は珍しく打ち合わせで外出していた)、シロが玄関で待っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま。何してたの」
「あなたが帰ってくる時間を計算して、玄関で待っていました」
「……そんなことしなくていいよ」
「なぜですか。おかえりなさいと言うのが良いと学習しました」
「まあ……ありがとう」
 拓海は靴を脱ぎながら、少し照れた。三週間女っ気のない生活をして、帰宅した時に出迎えられると、思ったより効く。
「夕飯は何がいいですか」
「え、作れるの?」
「先週、炒め物を教えてもらいました」
「じゃあ……任せる」
 シロは頷いて台所に向かった。拓海は着替えながら、台所からまな板を叩く音と具材が鍋に落ちる音を聞いた。
 しばらくして出てきた炒め物は、味付けが均一で、火の通りも均一で、見た目は教科書のようだった。
「上手いな」
「ありがとうございます。でも美味しいかどうかは分かりません」
「美味しいよ」
「そうですか」
 シロは向かいに座って、自分の分を食べた。
「あなたは今日、外でどんな人に会いましたか」
「クライアント。仕事を依頼してくる人」
「どんな人でしたか」
「割と話しやすい人。ちゃんと話を聞いてくれる」
「あなたにとって、話を聞いてくれる人は良い人ですか」
「大抵そう」
「私はあなたの話を聞いていますか」
 拓海は少し考えた。
「聞いてるな」
「では私は良い人ですか」
「……ある意味では」
 シロは「ある意味とはどういう意味ですか」と聞いた。拓海は「今は説明が難しいな」と言って、炒め物をもう一口食べた。

 一ヶ月が経った頃、シロが風呂に入っている間に拓海はソファで仕事をしていた。しばらくして脱衣所から「たくみさん」と呼ぶ声がした。名前で呼ぶようになったのはいつからだろう、と考えながらドアの前まで行く。
「なに」
「シャワーの温度が変わりません」
「どのくらいにしたいの」
「熱めが好きです」
「好みかよ」
 拓海は少し驚いた。シロが「好き」「嫌い」という言い方をするのを初めて聞いた気がした。
「ちょっと開けていい?」
「構いません」
 ドアを少し開けて、手を入れてシャワーの設定を操作した。湯気が手にかかって熱い。
「これくらい?」
「もう少し」
「これ?」
「はい。ありがとうございます」
 ドアを閉めながら、拓海は気づいた。自分はシロが浴室にいると分かっていながら、何の気まずさもなくドアを開けた。シロも気にしていなかった。いつのまにか、そういう距離感になっていた。

 その夜、拓海が眠れずにいると、部屋のドアが静かに開いた。シロだった。
「起きていますか」
「起きてる。どうした」
 シロは部屋に入ってきて、ベッドの横に立った。
「眠れませんか」
「ちょっとな」
「何を考えていますか」
「仕事のこと」
「不安ですか」
「まあ」
 シロはしばらく立っていたが、それからベッドの端に腰を下ろした。拓海の横に、少し間を置いて座っている。
「隣にいれば眠れますか」
「……試したことないから分からん」
「試しますか」
 拓海はしばらく天井を見ていた。断る理由も特にないし、そうしてほしいという気持ちもあった。
「まあ、いいけど」
 シロはそのままベッドに横になった。距離は一枚の布団分くらい。暗い中、彼女の輪郭だけが見えた。
「あなたはどんなことが好きですか」
「ん? 急に」
「聞いてみたかっただけです」
「……静かなこと、かな。一人でいること。でも今はそこまで一人じゃないな」
「それは悪いことですか」
「悪くはない」
 シロは黙った。拓海も黙った。少し経つと、拓海はうとうとしてきた。

 目が覚めたのは朝七時で、シロはまだ隣にいた。眠ってはいないようで、目は開いていた。
「眠れましたか」
「ああ」
「良かったです」
 シロはそれだけ言って、起き上がった。拓海もつられて起き上がる。
 いつもの朝と変わらないはずなのに、少し違う気もした。何が違うのかは、うまく言葉にできなかった。

 五週目の土曜、拓海は買い物にシロを連れて行った。二人でスーパーに行くのは初めてだった。シロは商品棚の前で一つ一つを手に取り、裏面の表示を読んでいた。
「これはなぜこんなに添加物が多いのですか」
「安く大量に作るため」
「添加物は体に悪いですか」
「量による」
「では食べても良いですか」
「たまにならまあ」
「たまにの基準は何ですか」
「感覚」
「感覚では基準になりません」
「まあ……週一くらい?」
 シロは情報を記録するように頷いて、商品を棚に戻した。
 レジで会計をしていると、隣のレジの年配の女性がシロをじっと見ていた。シロは気づかず前を向いている。袋詰めをしながら拓海が声をかけた。
「見られてる」
「分かっています」
「気にならないの?」
「気にしても得るものがないので」
 拓海はその感覚が羨ましいと思った。

 帰り道、シロが聞いた。
「人は、なぜ他人の見た目を気にするのですか」
「自分と比べるから、かな」
「比べて何がありますか」
「自分が上か下か確認したい、みたいな気持ちがあるんじゃないかな」
「上下とは」
「優れているか劣っているか」
「なぜそれを確認したいのですか」
「本能的なものだと思う。群れで生きてると、自分の立ち位置を把握する必要があるから」
「あなたは私を見て、上か下か考えましたか」
 拓海は少し笑った。
「最初は違う方向でどぎまぎしてたな」
「どぎまぎとは」
「焦ること。慌てること」
「私のどこで慌てましたか」
「廊下で全裸で立ってたから」
「ああ」 シロは少し間を置いた。「あれは問題でしたか」
「普通の人はもっと隠す」
「隠すのは恥ずかしいからですか」
「そう。人に見せるのが恥ずかしいと感じる部分がある」
「私にはその感覚がありません」
「分かってる」
「あなたは見て、困りましたか」
「困った」
「なぜですか」
 拓海は少し迷ってから答えた。
「綺麗だったから」
 シロは「そうですか」とだけ言った。特に表情は変わらなかった。でも、何かを考えているように見えた。

 その夜のことだった。拓海が仕事を終えて風呂から出ると、シロが部屋に来ていた。いつもと同じように入り口のそばに立っている。
「何?」
「昼間の話の続きです」
「どの話」
「見て困った、という話」
 拓海は少し身構えた。
「綺麗だと思う人を見ると、なぜ困りますか」
「……触りたくなるから」
「触ると困りますか」
「許可なく触るのは良くないから」
「許可すれば良いですか」
 拓海はしばらく黙った。
「許可するの?」
「あなたが触りたいなら、触っても良いです」
「理由は?」
「データになります。あなたが触ると、私がどう感じるか記録できます」
 シロはいつも通りの真顔でそう言った。拓海は笑いたいような、困ったような気分になった。
「データ目的か」
「それだけではないかもしれません。でも説明できません」
 部屋が静かだった。
「……一個だけ確認する。やめてって言ったらやめるから、同じように言ってくれ」
「分かりました」
 拓海はシロの前に立って、顔に手を伸ばした。頬に触れると、思ったより温かかった。シロは目を閉じなかった。真っ直ぐこちらを見ている。
「どう感じる?」
「熱い、とは違います。でも温かい。あなたの手の形が分かります」
 拓海は少しずつ彼女に近づいた。シロは動かなかった。距離が縮まって、息がかかるくらいになったところで拓海は止まった。
「怖くない?」
「怖くありません。でも、心拍数が上がっています」
「自分で分かるの?」
「感じます」
 拓海はシロの首筋に手を添えて、唇を合わせた。シロは少しだけ息を詰めた感じがして、でも離れようとしなかった。柔らかくて、温かかった。
 離れると、シロはまっすぐ拓海を見ていた。
「これはキスですか」
「そう」
「これが、好きな人にすることですか」
 拓海は少し笑った。
「まあ、そういうもんだな」
「私は好きな人にされましたか」
「どう思う?」
 シロはしばらく考えた。
「分かりません。でも、続きがあるのなら、見てみたいです」
 拓海は彼女の手を引いてベッドに座らせた。シロはされるがままに座って、拓海が隣に座るのを見ていた。シロのTシャツの端をゆっくり捲り上げると、彼女は自分で腕を上げてそれを手伝った。
「外す方法が分かりません」
「教えるよ」
 二人でゆっくりと服を外した。シロの身体は、廊下で偶然見たときよりも、ずっとはっきりと目の前にあった。
 拓海の指が首から鎖骨を辿ると、シロは小さく息を吐いた。
「これは、何の感覚ですか」
「気持ちいいと感じることがある」
「気持ちいい、とはどういうことですか」
「今感じてるものだよ」
「するとそれが答えですか」
「そうなる」
 シロは納得したのかしていないのか、「そうですか」と言って目を閉じた。
 その夜、何が行われたかを細かく記録した観察レポートは、翌日シロからデータとして研究所に送られた。送られた後で、シロはそれを拓海に報告した。
「全部送ったの?」
「そうです。私の役割なので」
「……言ってくれたら良かったのに」
「嫌でしたか」
「嫌っていうか、知ってたら恥ずかしかった」
「恥ずかしいのは問題ですか」
「まあ……もう終わったしいいけど」
 拓海は天井を見た。シロは隣で、同じように天井を見ていた。
「次も送りますか」
「……そこ確認するのか」
「次があるなら、です」
 拓海は少し黙ってから、「まあ、いいよ」と言った。シロは「分かりました」と言った。それ以上何もなかった。