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逆転した界面

4,352 文字 約 9 分

あらすじ

VRChatをプレイしている会社員の男性。アバターはアニメ風の美少女。普段はリモートワークで、それ以外の時間はよくVRChatをプレイしている。マルチプレイをするタイプではなく、一人でいろんなワールドを見に行ったりする。ホームに設定しているワールドはおしゃれなマンションの一室のようなワールドで、動画を見たりウェブサイトを見たりする。
いつも通りプレイしていると、急に画面に現実の様子が映し出される。ゲームが落ちたかバグったのだと思い、ヘッドセットに繋いだパソコンの状態を見ようとヘッドセットを外す。外すとそこはVRChatのワールドで、自分の身体はアバターの身体になっている。
VR内で操作するアバターと現実の肉体との関係が入れ替わり、VR内のアバターが自分の身体で、現実の肉体が操作するアバターとなっている。


本文

 午後六時。チャットツールのステータスを「退勤」に切り替えた瞬間、俺の意識はすでに仕事モードから切り離されていた。
 リモートワーク主体の今の生活は、通勤のストレスがない代わりにオンとオフの境目が曖昧だ。だからこそ、俺には儀式が必要だった。
 デスクの脇に置かれた無骨なVRヘッドセット。それが、俺を別の世界へと連れ出す鍵だ。
 慣れた手つきで被り、コントローラーを握る。視界が暗転し、数秒のロードを経て、俺は「俺」ではなくなる。

 目の前に広がるのは、白を基調とした洗練されたデザイナーズマンションの一室。俺がVRChatのホームに設定しているワールドだ。
 壁一面のガラス窓からは架空の都会の夜景が一望でき、部屋の隅には観葉植物がセンス良く配置されている。
 そして、部屋の中央にある姿見。そこに映っているのは、くたびれたサラリーマンではない。
 銀髪のロングヘア、クリっとした大きな瞳、華奢な肢体。フリルのついたゴシック調の衣装を身にまとった、アニメ風の美少女アバター。
「……ん、よし」
 鏡の前でポーズを取る。アバターの唇が動き、可愛らしいロリボイスが響く。ボイスチェンジャーを通した俺の声だが、この姿にはよく似合っている。
 俺はいわゆる「お砂糖」関係や、濃密なコミュニケーションを求めてここに来ているわけではない。ただ、この理想の姿で、理想の空間に浸っていたいだけなのだ。
 ソファに身を投げ出す(現実の俺はゲーミングチェアに深く座り込む)。空間に浮かぶメニューを操作し、ブラウザを開いて動画サイトを巡回し始めた。
 仮想空間での一人遊び。誰にも邪魔されない、至福の時間。アバターの手足を動かすたびに、スカートの裾が揺れ、白い太ももがチラリと覗く。自分のアバターに見惚れるというのも奇妙な話だが、この可愛さは俺の自尊心を満たしてくれる重要な要素だった。

 異変が起きたのは、そんなまったりとした時間を過ごして一時間ほど経った頃だった。
 不意に、視界にノイズが走った。
「あ? ラグか?」
 スペックには自信があるPCだ。回線も安定しているはず。
 だが、ノイズは収まるどころか拡大し、視界全体を奇妙な映像が侵食し始めた。
 それは、どこか見覚えのある光景。
 散らかったデスク、飲みかけのペットボトル、そして……明かりのついたモニターと、それを操作する骨ばった自分の手。
「これ……俺の部屋の映像?」
 パススルー機能が誤作動を起こしたのか? いや、俺のヘッドセットにそんな高精細な外部カメラ機能はないはずだ。
 まるで自分の視界が、遠く離れた場所にある肉体の視界と混線しているような奇妙な感覚。
 ゲームが落ちたか、あるいは致命的なバグか。
 気味が悪くなり、俺はヘッドセットを外して現実に戻り、PCの状態を確認しようとした。

 顔を覆う重たいゴーグルに手をかけ、持ち上げる。
 いつもなら、これで薄暗い自室の天井とモニターの光が目に入ってくるはずだ。
 だが。

「……は?」

 ヘッドセットを外した俺の目に飛び込んできたのは、変わらず「洗練されたマンションの一室」だった。
 夜景も、観葉植物も、何もかもがそのまま。
 ただ一つ違ったのは、俺の手元にあるものだ。
 俺の手には、現実世界で使っているはずのVRヘッドセットが握られていた。
 そして、そのレンズの中には――薄暗い四畳半の部屋の景色が広がっていた。目の前には見慣れたモニターがあり、視線を少し下げると、むさいジャージ姿の自分の膝が見える。

 混乱して、俺は自分の身体を見下ろした。
 そこにあるのは、ヨレヨレのTシャツとジャージではない。
 繊細なレースがあしらわれた黒いドレス。華奢な手首。白く透き通るような肌。
「うそ……だろ……?」
 漏れ出た声は、ボイスチェンジャーを通したものではなく、喉から直接響いたものだった。しかし、その声質は紛れもなく、いつも聞いているあのアニメ声そのもの。
 俺は慌てて鏡の前に駆け寄った。
 銀髪の美少女が、困惑した表情でこちらを見返している。
 俺は、アバターになっていた。いや、この仮想空間が「現実」になったのか?

 心臓の鼓動が早くなる。胸の奥が締め付けられるような感覚。
 ふと、手に持ったヘッドセットに視線を戻す。
 レンズの中に映る景色――かつての俺の視界――が、ピクリと動いた気がした。
 恐る恐る、ヘッドセットを覗き込むように顔を近づける。
 すると、レンズの中の映像が、ぐらりと揺れた。
「これ……まさか」
 俺がヘッドセットを右に傾けると、レンズの中の視界も右に流れる。左に向けると、左に。
 理解するのに時間はかからなかった。
 入れ替わっているのだ。
 今の俺の「本体」はこのアバターであり、この仮想空間だ。
 そして、かつての肉体は、このヘッドセットを通して操作する「アバター」のような存在に成り下がっていた。

 通常ならパニックに陥るところだろう。
 だが、奇妙なことに、俺の心には恐怖よりも先に、ある種の興奮が湧き上がっていた。
 俺はヘッドセットをソファに置き、自分の身体を確かめるように抱きしめた。
 二の腕の柔らかさ。胸元の膨らみ。腰のくびれ。
 触れる感触は、データの羅列などではない、確かな「肉」の感触だった。それも、極上の。
「……すごい」
 俺は震える手で、自分の胸に触れた。
 衣装越しでも分かる、マシュマロのような弾力。指先が沈み込み、甘い感触を伝えてくる。
 スカートの中に手を滑り込ませる。太ももの内側、すべすべとした肌の質感に、思わず背筋がゾクゾクと震えた。
 かつての男の感覚では味わえなかった、鋭敏すぎる皮膚感覚。
 指を這わせるだけで、電流が走るような快感が全身を駆け巡る。
「あっ……ふぅ……」
 漏れ出る吐息さえも愛らしい。
 俺はソファに倒れ込み、スカートを捲り上げた。
 白く輝くような太ももが露わになる。その奥にある秘所へと指を伸ばす。
 そこには、男の身体にはなかった、濡れた秘裂が存在していた。
 躊躇いながらも、指先で愛撫を開始する。
 クリトリスを優しく擦り上げると、頭の中が真っ白になるほどの快楽が押し寄せた。
「んぁっ! や、これ……すご……っ!」
 自分の指で自分を慰める。ただそれだけの行為なのに、かつてのオナニーとは次元が違った。
 敏感な粘膜が指に絡みつき、蜜が溢れ出してくる。
 自分の身体がこんなにもいやらしく、快感に弱いなんて。
 視界の端に置かれたヘッドセット――その向こうにある現実の荒んだ部屋など、もうどうでもよかった。
 俺はこの美しい容れ物の中で、永遠にこの快楽に溺れていられるのだ。

 ひとしきり絶頂を迎え、荒い息をつきながら、俺はぼんやりと天井を見上げた。
 汗ばんだ肌が心地よい疲労感に包まれている。
 横目で見ると、ヘッドセットのレンズの中には、変化のない薄暗い部屋の景色が映し出されていた。操作主を失った肉体は、ただじっと虚空を見つめているのだろう。
 あちらが「ログアウト」した世界。こちらが「ログイン」した世界。
 明日からも仕事はあるだろう。その時は、あのヘッドセットを被って、あのむさい男の身体を操作して、リモートワークをこなせばいい。
 そして仕事が終われば、ヘッドセットを外して、この楽園に戻ってくる。
 最高の生活じゃないか。
 俺は満足げに微笑み、自分の身体を愛おしそうに撫で回した。もう二度と、あちら側に戻りたいとは思わなかった。

 しかし、現実は非情だ。
 翌朝、始業のチャット通知が、ヘッドセットのレンズ越しにチカチカと光って俺を呼んでいた。
 俺は憂鬱な気分で、VRワールドのソファに置かれた無骨なゴーグル――現実への接続端子――を手に取った。
「よし、ログイン……するか」
 覚悟を決めて装着する。視界が切り替わる。
 薄暗い四畳半。モニターのブルーライト。散らかったデスク。
 俺は「肉体」という重たくて鈍いアバターを遠隔操作して、業務を開始しようとした。
 だが、すぐに壁にぶち当たった。
「……動かねぇ、指が」
 VR内の俺の手の動きと、現実の肉体の手の動き。その同期(シンクロ)がいまいちなのだ。
 特にキーボードのタイピング。これが絶望的だった。
 アバターの華奢な指先を動かしても、向こう側の骨ばった指はワンテンポ遅れて、しかも不器用にしか反応しない。
「あーもう! 『お世話になっております』って打つだけで何分かかってんだよ!」
 Aキーを押そうとしてSキーを押してしまう。バックスペースを押そうとしてエンターを押してしまう。
 VRコントローラーでマニピュレーターを操作しているようなもどかしさ。
 これなら、VR空間内に仮想キーボードを出して打った方がよっぽど早い。
「……そうするか」
 俺は物理的な操作を諦め、VR空間の標準機能であるデスクトップオーバーレイを起動した。
 目の前の空間に、現実のPC画面がウィンドウとして浮かび上がる。そして、手元には半透明の仮想キーボード。
 アバターの細い指で仮想キーを叩く。その信号はダイレクトにPCへ送られ、文字がスラスラと入力されていく。
「快適……!」
 肉体の指を一本一本動かすという苦行から解放され、仕事の効率は劇的に向上した。
 現実の肉体はただ椅子に座っているだけの「受信機」でいい。脳(俺)からの出力は、この快適なデジタルインターフェースを経由すればいいのだ。

 そして昼過ぎ。
 ふと時計を見て、俺は作業を中断した。
「そろそろ燃料補給の時間か」
 アバターである俺自身に、空腹感などという厄介な感覚は存在しない。腹が鳴ることもなければ、血糖値が下がってフラつくこともない。
 肉体からのフィードバックは完全に遮断されているようだ。
 だが、だからこそ理性的(ロジカル)に管理しなければならない。
 時間が経てば生物としてのエネルギーは枯渇する。メンテナンスを怠れば、システムダウン(死)に直結する。
「面倒くさいな……全く腹なんて減ってないのに」
 だが、肉体が活動停止(死)すれば、この楽園に留まり続けられる保証はない。パソコンの電源が落ちればサーバーも落ちるように、肉体が朽ちれば俺の意識も消えるかもしれない。
 発電機に燃料を補給するように、俺は渋々肉体を操作して立ち上がらせた。
 視界が揺れる。平衡感覚が掴みにくい。
 のろのろと冷蔵庫へ向かわせ、冷えたペットボトルの水を掴み、口へと運ぶ。
 ゴクゴク、と喉が鳴る音がヘッドセット越しに聞こえる。
 続いて、昨日コンビニで買っておいたパンを袋から出し、無理やり口に押し込んで咀嚼させる。
 味はしない。こちら側には味覚データが送信されていないらしい。
 ただ、肉体のステータスバーが回復していくような、事務的な感覚だけがある。
「ほら、食え。食って働け」
 まるで育成ゲームのキャラクターに餌を与えているような気分だった。
 かつて自分だったもの。今はもう、俺という意識をホストするための生体サーバーでしかない肉の塊。
 不思議と愛着は湧かなかった。あるのは、ただの管理義務感だけだ。